宮古は沖縄本島から約300㎞南西にある。主島宮古島は160㎢で、その周辺に大神、池間、伊良部、下地、来間五島がある。宮古にはあと二島、多良間と水納がある。これら二島は、宮古島からさらに50㎞南西に離れている。そんな島々の中で、今回は宮古島と伊良部島で詠まれた歌を紹介したい。
島人は/声のかぎりを/ふりしぼり/クイチャーを踊る/ひでりつく夜を 平良好児
平良さん(一九一一〜一九九六)は宮古島生れ、宮古島において「郷土文学」を主宰、地域文化の発展に尽力した方である。
今回挙げた歌は、宮古で農業を営む上で、最大の課題であった雨を乞うクイチャー(村の人々が集まって行う円舞)を歌ったものである。
現在宮古島には地下ダム(一九九三年畑地への散水開始)が造られ、農業振興に期待が寄せられているが、それまでは、雨頼み農業であった。干ばつになると、サトウキビの収量が通常の約四〇%(一九六三年)とか、三〇%(一九七一年)に減少し、日々の食料にもこと欠く程であった。そんな年はソテツ地獄と言われ、十分に毒抜きをしてないソテツの実を食べた人が死亡するという、悲惨なこともあった(一九七一年)。人々は雨を求め、十字路など広場に集まって夕方から夜にかけてクイチャーを催し、神に祈った。当時の宮古民政府はクイチャーを奨励し、費用を援助するほどであった。
平良さんも一緒にクイチャーを踊ったに違いない。歌を通してそんなことが思えてくる。
吾子三(あこみ)たり/くるみ育てし/丹前を/捨てがたくおり/梅雨明けの日に 譜久島アイ子
アイ子さん(一九二七〜二〇一八)は伊良部島の出身。宮古高等女学校を卒業と同時、数え一七才で教壇に立ち、六〇才定年まで勤めあげた。一九五〇年代の初め頃結婚し、男一人、女二人の子供に恵まれた。
彼女が子育てをしていた頃は、産前産後を通して休暇は六週間しかなかった。仕方なく子供は子守にあずけていた。子守はお乳を飲ませるため、2㎞もあるアイ子さんの職場に通っていた。
冬になると南の島でも丹前が必要である。子守も子供を丹前にくるんで通ったのでしょう。アイ子さん自身も使ったでしょう。
思い出が詰まった丹前も子供達が成長するにつれて、要らなくなった。梅雨が明けたら虫干して納めようと思って干した。ところが、要らなくなったものを又納めるのもどうか?と思い、いっそ捨ててしまおう、と思った。しかし、ポイと捨てることはできなかった。
子供達と過ごした日々の楽しい思い出、そのことが詰まっている丹前の行く先を案じているアイ子さんの気持ちが詠まれている。
見わたせば/甘蔗(きび)のをばなの/出揃いて/雲海のごとく/島をおうえり 宮国泰誠
宮国さん(一九一五〜一九九二)は宮古島出身の医師で歌人でもある。平良市内で医院を開きながら、歌集や随筆集も出版している。数多い歌の中からここで挙げたのは、一九七〇年宮中歌御会始入選歌で、宮古の人々をはじめ、多くの方々に愛しょうされている。
宮古島は全島の約50%が畑地で、そのうち70%余が甘蔗(きび)畑である(2010年)。宮国さんはそんな島で、医者カバンを持ち馬に乗って村々を往診したとのことである。そうして村々を訪ねていると、地形が高台になっている場所に出会うことがある。そんな高台からは、一八〇度の視界で眼前にきび畑が広がる。
冬の初め十一月頃になると、キビは一斉に穂(をばな)を出す。一面が銀白色。それはまるで飛行機に乗った時に出会う雲海の如くである。
この歌からは地形を含めた宮古島の自然と人のなりわいを重ねた壮大な風景が浮かび上がってくる。宮国さんの感覚と、熟慮を重ねた成果のみごとさが見えてくる。