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ティダ・ヌ・カザとスサーファーン・ピャーノーマガマ
2023.02.02

スマ(島・古里)ウツ(言葉)(二)

 

先月は島の言葉として「ナンミー・カーラカス・ニャーン(なめて乾かすように)」を取り上げた。今回は「テイダ・ヌ・カザ」と「スサーフアーン・ピャーノーマガマ」の二つを紹介したい。  

 

ティダ・ヌ・カザ(太陽の匂い)

 

「ウワドー、ティダヌカザヲバー、カミイヤミーンノ?(あなた達は、ティダ、太陽のカザ、匂いをかいだことはないか?)」、やがて八十を迎えるという母が問うてきた。

 

「スサン、ナヲヤシイノコトガ?(知らないよ、どんなこと?)」と問い返したら、「天気のいい日に毛布や布団を干すでしょう。そうして干した毛布や布団をかけると、ほら、プーンといい香りがしてくるでしょう。あれがティダヌカザだよ」「それでおばあさんは、ティダヌカザア、カバスモノヤイバ、イダシイポシハイ(太陽の匂いはいい香りだから、出して干してよ)」と言っていたんだよ、と話してくれた。

 

干された寝具をかけると、それらは暖かい空気に満たされ、膨らんだような感じがする。フワフワ君と言ってもいいような感じ。含まれていた水分が蒸発し、水が占めていた場所に空気が入れ替わっているからでしょう。同時に干す前とは違った香りがプーンと流れてくる。いい気持ちで睡眠に入っていける。

 

ティダヌカザ、という宇宙的な広がりを持った言葉を私は初めて聞いた。自然と一体になった世界で生活してきた祖母や母ならではの言葉だと思う。

 

物質的解釈はいろいろあろうが、私は「ティダヌカザ」を島の言葉の一つに加えたい。

 

外では今日もティダ(太陽)ガナス(さん)が輝いている。

 

 

スサーファーン・ピャーノーマガマ

 

今から70年程前、島に自転車が入ってきた頃のことである。

 

造り酒屋の我が家にも酒販売用にと、入ってきた。祖母はそんな自転車のことを、スサーファーン・ピャーノーマガマ(草を食べない速い馬)と呼んでいた。「自転車」という新しい言葉になじめなかったのか、理由は定かでないが、そう呼んでいた。

 

 

 

自転車が入る前、島での乗りものは、馬か馬車であった。酒販売には馬車を使っていた。そんな中自転車が入って後は、馬車はその役割を自転車に譲った。自転車は祖母が言うように草を食べないし、出発前の準備も馬車に比べると容易で、商家にとっては、とてもありがたい道具であった。

 

その頃、島にはラジオもなかったので、天気予報は人の経験が頼りであった。

 

酒販売の兄さん達が出かける時はいい天気だったのに、帰る頃(夕方)になると、雨風が強くなり、帰宅が遅くなる日もあった。電話もなかったので、連絡も取れず、気丈夫な祖父でさえ、兄さん達のことを思い「大丈夫だろうか?」と気をもんだ。ところが側にいた祖母は「アッソガ(しかし)スサーファーン・ピャーノーマガマ・ヤイバ(ヤイバは、だからの意味)、大丈夫」と言って、祖父の気をそいでいた。

 

祖母は自分が見つけた(発明した)言葉で祖父を応援していた。

 

 

渡久 山章(とくやま・あきら)先生
1943年生まれ、宮古島出身、琉球大学名誉教授。地球化学、環境化学を専門分野に海水の化学など数々の学術や論文で受賞する沖縄の水に関する専門家。

 

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スマ(島・古里)ウツ(言葉)
2022.12.15

生まれ育った島(伊良部島:補)を離れて60年以上にもなる。けれども何かにつけて、島の言葉がふっと浮かんできたりする。今回はそれらの中から一つを紹介したい。

 

ナンミー・カーラカス・ニャーン

 

島には、ナンミー・カーラカス・ニャーン(なめて・乾かす・ように)という言葉がある(注)。私はこの言葉は、部屋を掃除してきれいにした状態(なめて乾かした程に)を指しているのではないかと思っていた。こんな理解は正しいか、友人 Т氏とG氏、さらにMさんに聞いてみた。

 

ところが三人が言うことには、掃除のことではなく、子育ての仕草を表す言葉ということで一致していた。恥ずかしながら、スマウツに対する私の理解は間違っていた。三 人によると、それは「子供をなめて乾かすくらい、大事に育てる仕草のこと」だという。それでТ氏にどんな時に使うのか、聞いてみた。すると「例えば親たちが子供の背中をスーピキイ(なでながら)、オコイフナリヨウ(大きくなりなさいよ)と言う時がある。そんな仕草のことを「ナンミー・カーラカス・ニャーン」という。「頭をなでながら、大きくなりなさいよ、 という仕草などもそうである。」と教えてくれた。子供をかわいがる仕草はいろいろあるが、それらはなべて、ナンミー・カーラカス・ニャーン といえそうである。

 

さて、このナンミー・カーラカス・ニャーンという言葉は、だれが何時(いつ)、何を見ていて考えついたのだろうか? だれが?何時?は、分からないが、何を見ていて?は思いつくことがある。子供の頃、数匹の山羊を飼っていたことがある。そんなある日、赤ちゃんが生まれるのを見た。生まれて間もない赤ちゃんは、足下はおぼつかず、よろよろしながらも立ち上がろうと懸命になっていた。母親はそんな赤ちゃんの体中をなめ、体についている膜のような物をふき取っていた。それは乾かしているように見えた。

 

このことの意味を今年(2022年)山羊の生理に詳しいS氏に聞いてみた。氏によると「母親は鼻に入っている羊水をなめて取り出し、呼吸を始めさせる。鼻に詰まったままでは、呼吸ができないからである。それから体中をなめるのは、自分の子供の匂いを覚えるためとも考えられる」 とのことであった。Т氏によると、母親はその膜のようなものをなめながら、食べているとのことであった。母親はそうやって。自分の体内とは異なる環境でも生きていけるように、手当しているように、私には思える。Mさんによると、犬や猫の親は出産時だけではなく、普段も子供をなめたりする。それは、とても可愛がっているように思えると話してくれた。普段でもなめることによって、日々変化する新しい世界になじんで生きていきなさい、という 母親の行為のように思える。このような動物たちの行為は、人が子供を大事に育てている時の仕草に通じるのではないか。親たちは、腕や背中や頭をなで、これから出会う新しい世界になじんでよ、そこで大きく育ってよ、と言っているように思える。ナンミー・カーラカス・ニャーンという人の言葉は、他の動物たちの仕草に習ったことではないか。

 

補:サッカーの日本代表堂安律選手のおじいさんの古里でもある。

注:島でも集落によってはナンミー・ハッテハッテという。ハッテハッテは、何度もなめるという意味。

 

渡久 山章(とくやま・あきら)先生
1943年生まれ、宮古島出身、琉球大学名誉教授。地球化学、環境化学を専門分野に海水の化学など数々の学術や論文で受賞する沖縄の水に関する専門家。

 

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森と私達
2022.11.17

空気の橋

沖縄で一番大きな島は、沖縄本島(1250㎢)である。そこには県都那覇市があって、私達の会社もそこにある。次いで大きいのは八重山の西表島(284㎢)である。

 

西表島にはイリオモテヤマネコが住んでおり、カンムリワシも飛び交い、セイシカの美しい花が咲き、マングローブも広がっているので、多くの方がご存知ではないだろうか。現在(2022年)石垣島から高速船が毎日20便以上も運航されている。

 

そんな西表島の東側には豊原、大原、大富、などの集落があり、そこから40㎞(補)離れた西側には船浦、上原、中野、住吉、浦内、星立、、白浜、船浮などがある。島の人々はそれら両地域を東部、西部と呼んでいるので、島に行くと、なんだかアメリカに来ているような気がする。

 

ある日、私はバイクを借りて東部を出発し、西部を目指した。寒かったので、雨具をウインドブレーカーにして走らせた。途中でバイクを停め、メモを取りながら進んだものの、休まずに西部の先まで行ってしまうのは無理。それでも浦内橋を過ぎ、西表小学校(祖納の手前にある)の側まで来ていた。

 

しばらく休もうとエンジンを止めた。バイクに寄りかかって息をついていると、目の前の森から新鮮な空気(酸素をたくさん含んだ空気)が自分に送られてきた感じがした。それを深く吸い、次に自分がはき出した。はき出された息は炭酸ガス(二酸化炭素)を多く含んでいるに違いない。その息が森に吸い込まれていくように感じられた。そんなふうに、森と呼吸しあっていると、森と自分の間に空気の橋がかかっているように思えてきた。直線ではなく、円弧の橋である。

そんなことを考えながら、西表島での調査を終え帰ってきた。

石垣島、西表島に分布するセイシカ(聖紫花)

 

 

アマゾンの森と私達の関係

 

今、私は書斎でこの文章を書いている。西表島で森と自分との間には空気の橋がかかっている、と感じた私は考えた。それは、南米のアマゾンに広がる大森林と自分との関係についてである。

 

地球上で空気は村々、島々をめぐっている。赤道を越えた遠いアマゾンの空気も、ペンを走らせている自分の書斎に流れてきているに違いない。その空気に乗って自分が出した息もアマゾンの森に届いていると思う。するとアマゾンの森と自分とは深い関係にあるといえる。

 

いや、私だけではない。地球上の全ての人は、アマゾンの森とも呼吸しあっている。アマゾンの森と私達とは、そんな深い関係にあるといえる。

 

(補)大原と祖納間の道路に沿った距離

 

渡久 山章(とくやま・あきら)先生

1943年生まれ、宮古島出身、琉球大学名誉教授。地球化学、環境化学を専門分野に海水の化学など数々の学術や論文で受賞する沖縄の水に関する専門家。

 

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年間ベストワン
2022.10.17

新聞を読んでいると「スゴイ」と思う文章に出会うことがある。

 

今から20年程前の2003年、「スゴイ」と思い、自分にとって年間ベストワンに選んだものがある。それは芥川賞受賞の喜びを文章化したもので、作者は、吉村萬壱さん(当時42歳)。受賞対象となった小説は「ハリガネムシ」であった(2003年7月29日、沖縄タイムス)。

 

吉村さんはある喫茶店で毎日決まった席に座り、日記のようなものを書いている。万年筆でゆっくり書く。急いではいけない。そうして半ページ進むと、水に浸したティッシュのように、精神がフラットになってくる。同時にこの世界が文字によって成り立っているような気になる。いら立ちがおさまり、世界と和解する。私にとって、日記を書くことは、書道のような効用があると書いている。

 

受賞決定の知らせはホテルで受けたとのこと。その翌朝、テレビを観ていると、ちょうちょ(蝶々)が羽化して飛び立つ様子が映っていたそうである。蝶々はさなぎの中で一度液状化した後、形を作っていくとも書いている。

 

吉村さんは自分の小説もドロドロした中から生まれてきた。それが今回うまく飛び立つことができた。蝶々もうまく飛び立てるか、テレビにくぎ付けになったと、書いている。

 

ではどうして、この文章を年間ベストワンに選んだのか?一つは急がないで文字をゆっくり書くことの大事さ、あと一つは蝶々はさなぎの中でいったん液状化することが書かれているためである。それに何より文体に引きつけられるからである。

 

こうして年毎に年間ベストワンを選びたいのだが、読む量が少ないのか、途絶えたりしていた。それが今年(2022年)未だ9月初めというのに、今年のベストワンを決めた。それは、元ソ連大統領ゴルバチョフ氏死亡を報じた記事である(2022年9月1日、沖縄タイムス)。

 

その記事にはゴルバチョフ氏がペレストロイカ(改革)を推進、東西冷戦を終結に導いてノーベル平和賞を受賞(1990年)されたことなどが書かれている。

 

では氏のこのような平和思想は、どこから生まれてきたのか?このことを考えさせてくれることも新聞は報じている。

 

  わたしたちはみんな同じ地球という惑星の子どもなのだから

 

氏は2001年11月、沖縄県那覇市制80周年の記念講演のため、来沖された。その時、当時の那覇市長に色紙を渡された。それには「世界には困難な問題が多いが、みんなが協力してその問題を解決しなければならない。何故ならば、わたしたちはみんな同じ地球という惑星の子どもなのだから」と書いてあった。

 

ゴルバチョフ氏から、那覇市長に渡された色紙に書かれたメッセージ

 

私はこの中の「私たちはみんな同じ地球という惑星の子どもなのだから協力して問題を解決しなけばならない」という考えに惹かれ、今年のベストワンに選んだ。そして、この考えが氏の平和思想を生んでいるのではないかと思う。鏡にしたいものである。

 

なお、色紙に書かれたメッセージを刻んだ碑は、現在那覇市役所東側植木の側、那覇市民憲章に並んで建てられている。

 

渡久 山章(とくやま・あきら)先生
1943年生まれ、宮古島出身、琉球大学名誉教授。地球化学、環境化学を専門分野に海水の化学など数々の学術や論文で受賞する沖縄の水に関する専門家。

 

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人と自然の哲学関係
2022.09.16

ヒラヒラヒラ、落ち葉は舞うようにして、川面に落ちた。受け取った川は、喜びにあふれて、笑った。笑いはいくつもの同心円を描いて、広がっていった。そんな様子を見つめていた人は詠んだ。

葉と出逢ふ 水の喜び 幾重にも  

           (浦添春夫)

 落ち葉が川面に触れた瞬間に心を打たれた作者は、人の出会いもこのようなものであってほしいと、願いを込めた。

 「出会いが幾重もの喜びをもたらしてくれますように」

 作者は「自然から沢山のことを学んできた。自分にとって、自然はバイブルであり、仏典である。しかも活字ではなく、生命の言葉で刻まれたもの」という。

 美しい旋律で知られる伊良部タオガニの歌詞(一部)は「ナツフユ カワラン ニノパノ ポスガマ、フモリ テイヤニヤーン ピテツ ボス ガマヨー、ウワトヨー バントマイ、ピテツ ボスノニヤーンド ツムノ カワリテイヤ、アラデン マーンヨー」である(大川恵良著、伊良部郷土史、一九七四年)。

 意味は「夏冬変わらん ニノパボス(北極星)、くもりひとつない一つ星よ、あなたと私もあの星のように、変わることなく、くもりなく、生きていきましょうね」である。

 夫婦の間にすきま風が吹いたかもしれない。星を見ていた片方が、あの星のようにありたいものと願った。だれも教えてくれなかったことを、一つ星が教えてくれた。

 人は自然から学びながら、生きていくもの、今から三十年くらい前、新聞にある女学生の投書があった。「『家にいても面白くないし、学校も面白くない、死んだ方がいい、万座毛(沖縄島恩納村)から飛び込んでしまおう』と崖の上に立った。ところが崖に立って海を見ていると、その美しさに心を奪われてしまった。『世の中にはこんな美しいものがあったのか、死ぬなんてなんと馬鹿らしいことか』と帰っていった。」という内容であった。

 海が彼女の命を救ってくれた。

 川と葉の出会いを詠った人は、「万座毛の少女」と題して歌をつくった。「友に疲れ、人に疲れ、望み尽きた少女ひとり、さよなら友よ、さよなら人よ、別れを告げて崖に立つ、青い空、青い海、・・・万座毛の少女の今際の瞳、とけあった空と海、鮮やかに映す波と風の声の故か・・・少女の胸を射抜く光、こだまする光の渦、永久の命、少女は観た・・・」

 作者は言う。「人は自然への接し方によって、生活態度が変わってくる」「自然は求める者の願いをかなえてくれる神秘の玉手箱である」と。

 今後、科学技術は益々進み、狭くなっていく世界で、人は自然から何を学びとっていくのだろうか。人と自然の哲学関係、このことが、将来における人類の生死を決すると思われる。

渡久山章先生の「沖縄よもやま話」宮古の歌三首
2022.08.16

宮古は沖縄本島から約300㎞南西にある。主島宮古島は160㎢で、その周辺に大神、池間、伊良部、下地、来間五島がある。宮古にはあと二島、多良間と水納がある。これら二島は、宮古島からさらに50㎞南西に離れている。そんな島々の中で、今回は宮古島と伊良部島で詠まれた歌を紹介したい。

島人は/声のかぎりを/ふりしぼり/クイチャーを踊る/ひでりつく夜を         平良好児

 平良さん(一九一一〜一九九六)は宮古島生れ、宮古島において「郷土文学」を主宰、地域文化の発展に尽力した方である。

 今回挙げた歌は、宮古で農業を営む上で、最大の課題であった雨を乞うクイチャー(村の人々が集まって行う円舞)を歌ったものである。

 現在宮古島には地下ダム(一九九三年畑地への散水開始)が造られ、農業振興に期待が寄せられているが、それまでは、雨頼み農業であった。干ばつになると、サトウキビの収量が通常の約四〇%(一九六三年)とか、三〇%(一九七一年)に減少し、日々の食料にもこと欠く程であった。そんな年はソテツ地獄と言われ、十分に毒抜きをしてないソテツの実を食べた人が死亡するという、悲惨なこともあった(一九七一年)。人々は雨を求め、十字路など広場に集まって夕方から夜にかけてクイチャーを催し、神に祈った。当時の宮古民政府はクイチャーを奨励し、費用を援助するほどであった。

 平良さんも一緒にクイチャーを踊ったに違いない。歌を通してそんなことが思えてくる。

吾子三(あこみ)たり/くるみ育てし/丹前を/捨てがたくおり/梅雨明けの日に   譜久島アイ子

 アイ子さん(一九二七〜二〇一八)は伊良部島の出身。宮古高等女学校を卒業と同時、数え一七才で教壇に立ち、六〇才定年まで勤めあげた。一九五〇年代の初め頃結婚し、男一人、女二人の子供に恵まれた。

 彼女が子育てをしていた頃は、産前産後を通して休暇は六週間しかなかった。仕方なく子供は子守にあずけていた。子守はお乳を飲ませるため、2㎞もあるアイ子さんの職場に通っていた。

 冬になると南の島でも丹前が必要である。子守も子供を丹前にくるんで通ったのでしょう。アイ子さん自身も使ったでしょう。

 思い出が詰まった丹前も子供達が成長するにつれて、要らなくなった。梅雨が明けたら虫干して納めようと思って干した。ところが、要らなくなったものを又納めるのもどうか?と思い、いっそ捨ててしまおう、と思った。しかし、ポイと捨てることはできなかった。

 子供達と過ごした日々の楽しい思い出、そのことが詰まっている丹前の行く先を案じているアイ子さんの気持ちが詠まれている。

見わたせば/甘蔗(きび)のをばなの/出揃いて/雲海のごとく/島をおうえり           宮国泰誠

 宮国さん(一九一五〜一九九二)は宮古島出身の医師で歌人でもある。平良市内で医院を開きながら、歌集や随筆集も出版している。数多い歌の中からここで挙げたのは、一九七〇年宮中歌御会始入選歌で、宮古の人々をはじめ、多くの方々に愛しょうされている。

 宮古島は全島の約50%が畑地で、そのうち70%余が甘蔗(きび)畑である(2010年)。宮国さんはそんな島で、医者カバンを持ち馬に乗って村々を往診したとのことである。そうして村々を訪ねていると、地形が高台になっている場所に出会うことがある。そんな高台からは、一八〇度の視界で眼前にきび畑が広がる。

 冬の初め十一月頃になると、キビは一斉に穂(をばな)を出す。一面が銀白色。それはまるで飛行機に乗った時に出会う雲海の如くである。

 この歌からは地形を含めた宮古島の自然と人のなりわいを重ねた壮大な風景が浮かび上がってくる。宮国さんの感覚と、熟慮を重ねた成果のみごとさが見えてくる。

渡久山章先生の沖縄よもやま話 青い海・青い空の詩
2022.08.08
青い海、青い空に囲まれた沖縄の原風景(写真の場所は座間味島)。

沖縄の海と白いハンケチ

山原(沖縄本島北部)をめざして那覇を発った観光バスは40分程で恩納村の入口、多幸山辺りに着く。そこに至るまでの風景は、ビル街と軍事基地だけしか見えなかったのが一変、エメラルドグリーンの海が眼に飛びこんでくる。「アッ」と息をのむ瞬間である。 そんなお客の心を知らず、バスはスピードを落とさない。お客の頭の中には「アッ」と驚いた海の青さが残ったまま。

そこから20分くらい走るとバスは、多幸山のようにやや高い所に差し掛かる。視界は180度広がった場所である。バスの運転手は心得たもので、180度に展開した沖縄の青とグリーンに色どられた海を見てもらいたいと、バスを停めた。 バスの窓越しに海を眺めていたお客の一人がバスを降り、海へ向かって歩き出した。海までは、けもの道を通って5分はかかるだろう。でもその人はスカートのまま降りて行った。

そうやって浜辺に着いたその人は、スカートを膝頭までからげ、海に入ってポケットから白いハンケチを出して、たらした。ハンケチが青く染まるのではないかと、ゆっくりとたらした。 白いハンケチは濡れただけであったが、お客の胸は感動に満ちた。

そんな海に加えて青い空を詠んだ詩がある。題は芭蕉布、作者は吉川安一さん。 「海の青さに空の青、南の風に緑葉の、芭蕉は情けに手を招く、常夏の島、わした島うちなー(私達の島沖縄)」で始まる詩。この詩はメロディーが付けられ、現在多くの人に歌われている。

芭蕉布は、バショウ科の糸芭蕉の繊維を織って作られる布。仲間の実芭蕉は、バナナの木のことを指す。

青について

さて、作者の吉川さんは、「青」について、思いを述べている(沖縄タイムス、1982年8月20日)。それには「私達の目を楽しませてくれる白・赤・黄・紫等の色彩も青い色彩の下だから、あんなにも鮮明に映えるのである。わたしたちをとりまく環境が青い色彩に包まれているからこそ、美が追及され、美術作品が生み出されるのだ。」と述べ、「青は人々が豊かで幸せな生活を営むうえで最も大事にしなければならない色彩だと考えている。」としている。 それゆえ、詩「芭蕉布」に青い海・青い空を入れたのは、「青」は平和を希求する色彩であることも、この歌謡に願いを込めた、と書いている。

青い空の詩

谷川俊太郎に、「晴れた日は」という詩があることをご存知の方は多いと思う。その詩の第一節は次の通りである。

晴れた日は空を見よう、 太郎も花子もジョンもマリーも、 みんなおんなじ空を知ってる 青い青い心のふるさと 空はみんなをだいている

空は世界の人々皆を抱いている。谷川さんはその空は「青い青い心のふるさと」と言っている。 では、心のふるさと、とは何だろうか?それは、自分を見つめ、生きる意味を考えさせ、勇気を与えてくれるものではないか。 それで、人生で最も活気に溢れた時代を青年時代といい、青春時代と呼んでいるのではないか。吉川さんの言葉を借りると、「青」は、周りの色彩と呼応して、人をふるい立たせる色彩ではないかということである。 私達はその青い海に囲まれ、青い空に抱かれている。ありがたいことではないか。

渡久 山章(とくやま・あきら)先生 1943年生まれ、宮古島出身、琉球大学名誉教授。地球化学、環境化学を専門分野に海水の化学など数々の学術や論文で受賞する沖縄の水に関する専門家。

渡久山章先生の沖縄よもやま話 歌「花」の系譜
2022.06.27

1998年、ブラジルでNHKのど自慢大会が開かれた。ゲストの一組が歌った曲は、私の記憶では喜納昌吉作詞・作曲「花~すべての人の心に花を」であった。「泣きなさい、笑いなさい・・・」というフレーズが入った曲である。 ゲストが唄った「花」は、ゲストの声とリズムにマッチして、それはそれはすばらしかった。 その後、私は喜納昌吉さん自身のライブ放映も観た。それもすばらしかった。

ところで、本稿のタイトルを歌「花」の系譜にしたのは、沖縄には「花」の入った歌が多いからである。 例えば、結婚式をはじめ、米寿祝いや白寿祝いなど、多くのお客様をお招きしてお祝いの座を開くとき、最初に唄い舞われる演目は「かぎやで風」である。 「きゆぬふくらしゃやなをぅにじゃなてぃてる つぃぼでぃをぅる花ぬつぃゆちゃたぐとぅ」という詞。訳は「今日の喜びは何にたとえられようか。あたかも蕾が露をうけて、ぱっと開いたようである。」という意味。そんな花を見ている人の晴れ晴れとした気持ちが唄われている。

琉球舞踊:四つ竹では、花鳥風月を華やかに描いた「紅型」衣装に、蓮の花と海と空を表現した「花笠」が用いられる。

露を受けてぱっと開くというと、私の古里伊良部島には「ンツバナ」という言葉がある。ンツは軒、バナは花のこと。 雨の日に赤瓦葺きの屋根から雨がザアザーッと落ちてきて、地面にくぼみを作る。そのくぼみに溜まっている水に、続いて降ってきた雨が当たって跳ねる。見ていると跳ねる瞬間の姿は花に見える。それがンツバナである。子供の頃、私もその花の模様をジイッと見つめていた。

実は雨粒を唄った歌は「雨だれ」という題で、全国に知られている。「雨だれが落ちている窓の外の軒端から見ているときれいだな。水晶の玉だね」という歌。

詩人は軒端から落ちてくる雨粒を「水晶の玉」と唄い、伊良部島の人は、軒から落ちてくる雨がくぼみの水に当たってパッと跳ねる様を「花」と捉えた。詩人は丸い球を見逃さず、島の人はパッと跳ねる時の花を見逃さなかった。

沖縄の赤瓦葺き屋根 瓦の間にできた溝から雨がまとまって勢いよく落ち地面に水が溜まり、やがてあふれて軒花が咲く。

沖縄には波の花を入れた歌もある。日本の最西端にある与那国島に「なんた浜」という浜がある。その浜の名をとった歌「なんた浜」である。 「波の花咲き、船足軽く・・」で始まる。浜には船を待つ人達がいる。船には荷物が積まれ、人(父・母・恋人)も乗っている。そんな船が舳先(へさき)で潮を飛び跳ねながら、浜に進んでくる。舳先で飛び跳ねられた潮には沢山の花ができる。浜で待っていた人達はそんな花も楽しんだことでしょう。

最後に「二見情話」を紹介したい。 去った大戦で沖縄本島南部の人々の中には北部(ヤンバル)に疎開した人達もいた。「二見情話」を作詞・作曲した照屋さんもその一人であった。照屋さんはその歌で「戦場の哀り何時が忘りゆら忘りがたなさや花ぬ二見ヨ」と歌った。訳は「戦場の悲惨さはいつか忘れるかもしれないが、忘れられないのは、花の二見のこと」である。 「花ぬ二見」、このフレーズは勿論、二見の人々の中にある心の花を歌っているのでしょう。「二見情話」は今、人々の間で多く歌われている沖縄の歌の一つである。

月桃(げっとう)の花 5月~6月、沖縄に梅雨の訪れを知らせる花。沖縄戦のことを歌にした曲名にもなっている。

こうして振り返ってみると、沖縄の人の心には時代を問わず、「花」があるように思える。そんな蓄積の上に、あの名曲喜納昌吉の「花」が生まれたのではないか、私にはそう思える。

渡久 山章(とくやま・あきら)先生 1943年生まれ、宮古島出身、琉球大学名誉教授。地球化学、環境化学を専門分野に海水の化学など数々の学術や論文で受賞する沖縄の水に関する専門家。

【渡久山章先生の子に聞かせたい昔話】想像力と創作力を育む
2022.05.23
人に近いところに住む姿が、雀孝行物語に例えられている。

 

ツバメとスズメ

昔ツバメとスズメは姉妹だった。2人は大人になって、出稼ぎに行った。出先で働いていると、親が病気になっているという知らせが届いた。妹のスズメは仕事着のまま飛んで帰り、親の看病をして見送った。ところが姉のツバメは、せっかく仕事に出ているから着飾って帰りたいと、スディナ・カカム(八重山で踊りの時着る衣装。上は黒で下は白)を織り上げ、着けて帰った。しかし、家に着いてみると、親はすでに亡くなっていた。

そんな様子を見ていた神様から「スズメは親孝行者なので、人間の家のひさしに巣を作って、人が作った穀物を食べて暮らしなさい」と言われた。「ツバメは親不孝者なので、たまにしか家に寄るな、寄ったとしても雨風に打たれて飛び回りながら、虫を取って食べなさい」と言われたという話である。 ここでは、八重山に伝わっている話を挙げたが、実はこの話はスズメ孝行物語として、北海道から八重山まで全国に伝わっている。

春になると沖縄を通って北へ向かい、台風が増える秋頃に渡ってくるツバメ。

さて、昔話は県内でも各島々に数多く話されてきている。それらの中にはここに挙げた「ツバメとスズメは姉妹であった」というような本当はあり得ないことを題材にした話も多い。 そんな昔話に触れていると、あり得ないような題材を挙げて話を展開するのはなぜなのか? と思ったこともある。しかし考えてみると、現実から離れたところにある題材を使っても、人は想像力を働かせ、創作に向かうことになるのではないかと思うのである。 私たちは、小説や歌など想像力を駆使して創り上げられた作品に目を凝らし、耳を傾ける。それは、作者の想像力と創作力に引かれるからではないか。 おそらく全ての昔話の中にも、人の本性たる想像力(思い、考える力)と創作力(創り上げる力)が発揮されているのではないかと思う。そのため子どもたちに昔話を話して聞かせることによって、知らず知らずのうちに、人間の本性を頭と体に植え付けていくのではないかと思われる。これからも多くの昔話を聞かせる大事さを思う。 子供の頃培った想像力と創造力(創作力)は大人になって、いろいろな分野の仕事に関わるようになった時、発揮されるのではないか。優れた科学の発見もおそらく想像力と創造力の合作ではないかと思う。 昔話の中には、人の本性が含まれており、少し大げさにいえば、昔話を通して人間を発見できるのではないかと思う。

 

渡久山章先生の出身地である宮古島伊良部

宮古島では八重山諸島に伝わっているツバメのイメージとは違い、『神様の遣い』と言われています。豆まきをする春と、収穫の時期の秋に宮古島を訪れ、その様子を見守っているような姿が、神様に遣わされたように宮古の人々には見えたと言われています。

この記事を書いた人

渡久 山章(とくやま・あきら)先生 1943年生まれ、宮古島出身、琉球大学名誉教授。地球化学、環境化学を専門分野に海水の化学など数々の学術や論文で受賞する沖縄の水に関する専門家。

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