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海のかなたの故郷へ想い届ける 〜那覇市・三重城(ミーグスク)〜
2023.04.03

海のかなたの故郷へ想い届ける

 

沖縄にはお正月が3回もあるんです。1月1日のお正月と旧暦のお正月。そして、3つ目はなんだと思いますか?。答えは「グソーのお正月」。

 

グソーとは「後生」、つまりあの世のお正月のこと。旧暦の1月16日に行われ、十六日(ジュールクニチ)と呼ばれる。

 

沖縄本島北部地域や八重山、宮古のご先祖様を祀る行事だ。その日は、家族親戚一同がお墓に集まり、重箱料理やお菓子、果物、お酒などをお供えし線香を焚くのだが、島を離れた八重山や宮古の人たちは、那覇市西に位置する海辺の「三重城(ミーグスク)」に集まる。

 

鳥居をくぐると拝所が見える。

 

お客様担当の平良美枝子さん(たいらみえこ)は、宮古島出身。この日は、兄弟夫婦や子供、孫など合わせて10人余りで三重城に集まり、南西に約300キロ離れた宮古に向かい手を合わせる。「みんな集まってにぎやかだとご先祖様も喜ぶだろうと思って、グソーのお正月をするわけさ」。敷物の上にごちそうを並べ、ご先祖様があの世でお金に困らないようにとウチカビと呼ばれる紙銭を焼く。そして、ご先祖様へ報告と感謝と健康・安全のお願いをする。

 

「ご先祖様への報告」というのが印象的だ。沖縄でも島々によって、景色も文化も言葉さえ異なる。大きな決意をして故郷を出ているはずだ。「十六日」は故郷に向かい手を合わせながら、ご先祖様にはもちろん、故郷にいる家族へ「ここで頑張ってるよ。会いたいけれど帰らずにもうちょっと頑張るね」と決意を報告する日なのかもしれない。

 

今では本島から宮古までは飛行機で40分ほどだが、船の時代は大変だっただろう。

 

三重城は16世紀、琉球王国が日本や外国との貿易の中心だった那覇港と市街地を倭寇(海賊)(わこう)から守るために、港の北口に築いた。砲台もあり、船の出入りなどを見張っていた。そして、中国や薩摩(鹿児島)へ長く危険な船旅に出る大切な人の無事を祈り見送る場所でもあった。

 

穏やかな南風が急に強い北風に変わるニンガチ・カジマーイ(2月風廻り)が吹く3月2日、三重城に向かった。海に突き出ていた三重城も今では埋め立てられ、ホテルに隣接している。ホテル横の階段を登り鳥居をくぐると、中国大陸につながる大きな大きな東シナ海が真正面に広がる。右側には、拝所(ウガンジュ)。服がバタバタとなびくほど風は強い。波が荒く、琉球石灰岩でできた断崖に打ちつけている。

 

この三重城が舞台にした琉舞(りゅうぶ)がある。雑(ゾウ)踊りという芝居役者によって創作された「花風(はなふう)」。その琉歌は次のように謳われている。

 三重城にのぼて 手巾持上げれば 速船のならひや 一目ど見ゆる(花風節)

 (みぐすぃくにぬぶてぃ てぃさじむちゃぎりば はやふにぬなれや ちゅみどぅみゆる)

 (三重城に登り別れの手巾を打ち振っていたら、船足が速く一瞬しか見えないのです。)※

 

港から少し離れた三重城から、船旅に出る恋人をそっと見送る遊女の心を詠っている。恋人の無事を祈り、どうすることもできない悲しさや寂しさを心のうちに押し込めただろう。

 

ゴツゴツした岩肌に荒波が打ち付ける。岩の先端まで行き、祈る人の姿が見られたそうだ。

 

三重城は、ご先祖様、家族、故郷、そして恋人に想いを寄せる場所。大切な人を想う気持ちは歳月を経ても変わらないものだろうか。

 

※勝連繁雄著『琉球舞踊の世界ー私の鑑賞法』より

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 井坂歩(いさか・あゆみ)

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街はガマと大木たちに見守られ 〜那覇市 希望ヶ丘公園〜
2023.03.10

街はガマと大木たちに見守られ

 

イーノは那覇市牧志のメインストリート、国際通り沿いにある。国際通りは、今でこそお土産屋や飲食店が並び、観光客で賑わっているが、戦前は街のはずれで畑や田が広がっていた。戦後、那覇市の中心地が米軍により没収され、捕虜収容所から故郷に帰ってきた人々は周囲の牧志や壺屋に移り住んだ。闇市からやがて公設市場や飲み屋街、映画館などができ、焼け野原からの復興を遂げたことから「奇跡の1マイル」と言われる。

 

奇跡の1マイル、国際通りには高層ビルやホテルが並ぶ。写真中央、わずかにイーノの建物も見える。

 

その国際通りの中央に建つテンブス館の裏に「希望ヶ丘公園」はある。

 

自転車で国際通りをモノレール牧志駅向けに走る。旧牧志公設市場があった市場本通りの入り口までは下り坂、そこからは上り坂になる。その間にも波うつように上下し、自転車のペダルが徐々に重くなる。この凸凹も昔の田舎道の名残りだろうか。10分ほど走ると、一本の真っピンクの桜が目に入った。沖縄の寒緋桜(かんひざくら)は1月下旬には開花シーズンだ。「わー」と遠慮がちに小さな声が漏れる。駆け寄りたくなる気持ちを抑えて、公園内へ。桜の木があちらこちらに見えて小走りになる。

 

寒緋桜と亜熱帯植物とのコラボレーションに心が躍る。

 

沖縄の桜はちょっと珍しい。開花は気温の低い北部から、南へと下る。一本の木でも一斉に咲くのではなく少しずつ咲いていく。真っピンクの花びらは、うつむきがちに。恥ずかしがり屋なのかもしれない。シャイなとろこは、うちなーんちゅ(沖縄の人)と一緒だ、と思った。

 

周りを見渡すと、ガジュマル、デイゴなどの大木。シマオオタニワタリが大木の枝の間に住みついている。大人二人が手を広げてやっと囲めそうなくらい太い。ガジュマルの樹齢は100年以上と言われるが、この丘の上の大木はいつからこの街を見てきたのだろうか。戦前の穏やかな牧志、戦後精一杯生きる人たちの姿、復興後の賑わいの国際通り。

 

ガジュマルの大木には、赤い髪の毛の男の子の妖怪(精霊)「キジムナー」が宿ると言われている。私はまだ会ったことがない。

 

反対側への47段の階段を下りると、斜面を利用したガマの入り口を見つけた。ガマとは琉球石灰岩の自然の洞窟だ。御嶽としての祈りの場から、戦時中は日本軍の陣地壕や住民の避難壕となった。そして、戦後は戦(いくさ)から助けてもらったお礼を伝える祈りの場へ。

 

琉球石灰岩に雨水が侵食し、自然にできたガマ。穏やかな空気が流れている。

 

ここに立ち寄らせてもらったお礼を伝えたくて手を合わせた。ふーっと息をついた。ゴツゴツした琉球石灰岩が飛び出ている。この島は海とサンゴ礁でできているのだ。帰りに、木々の向こうに18階建てのホテルが目に入った。半袖姿の観光客が行き交う国際通りから、一歩中に入るだけで、沖縄の原風景があった。希望ヶ丘公園は過去と現在を繋いでいた。

 

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 井坂歩(いさか・あゆみ)

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女流歌人の哀しみと激しさ 〜チルーとナビーの琉歌〜
2023.02.02

女流歌人の哀しみと激しさ

 

那覇空港から車で約10分、モノレール旭橋駅に直結したバスの中央ターミナルと県立図書館、OPAが集積する新しいビルが建つ。この傍らに、かつて海岸だったことを示すように琉球石灰岩の巨大な塊が立っている。「仲島の大岩(なかしまのウフシィ)」と呼ばれる県の天然記念物だ。高さ約6m、周囲約25m。道ゆく人は多いが、立ち止まって眺める人は少ない。この岩の周りだけは時が止まっているかのようだ。

 

 

岩の前の説明板には、仲島の遊郭があり、17世紀中頃、女流歌人として有名な「吉屋(ゆしや)チルー」もこの遊郭で18年という短くはかない生涯を終えた、と書いてある。歌とは、琉歌(りゅうか)のことだ。

 

恨む比謝橋や 情けない人の 吾渡さと思て 架けて置きやら

(うらむひじゃばしや なさきねぇんひとぅぬ わんわたさとぅむてぃ かきてぃうちゃら)

 

(恨めしいこの比謝橋は、私を遊廓に売り渡す為に非情な人が架けておいたのだろうか)

 

橋を渡って売られていくわずか8歳の吉屋チルーが詠んだ琉歌だ。琉球王国時代、田舎の貧しい娘たちは那覇の遊郭へ売られていったのだ。この比謝橋は、沖縄本島のちょうど真ん中あたりの嘉手納町と読谷村の境を流れる比謝川にかかっている。

 

昨年の暮れ、この日は気温12度。冬一番の寒さ。周囲に気を配りながらようやく二車線の鉄橋、比謝橋を見つけた。車が左右途切れなくブンブン走る。周囲には飲食店や住宅が並んでいる。車を停め、歩いてみる。

 

 

寒さが身に染みる。橋の長さは35.4m。橋からは比謝川が見える。上流は水源になっているくらい沖縄にしては大きな川だ。穏やかな流れに見えるが、昔は大雨の度に氾濫していたそうだ。今でこそなんでもない橋だけど幼い吉屋チルーはここを渡ったのだろうか。川の向こう側には深い森とマングローブが見える。もしこの時季に渡ったのなら、寒さや風の冷たさが余計に寂しさや不安をつのらせただろう。

 

 

(比謝橋から眺めた比謝川とマングローブ。吉屋チルーが眺めた景色と重なる。)

 

恩納松下に 禁止の碑たちゅす 恋しのぶまでの 禁止や無いさめ

(うんなまちしちゃに ちぢぬふえたちゅす くいしぬぶまでぃん ちぢやねさみ)

 

18世紀の女流歌人、恩納(うんな)ナビーのよく知られる琉歌。

男女の恋を邪魔するような野暮な王府の立て札を堂々と皮肉をこめて詠ったという。チルーとは対照的だ。

 

恩納松下の歌碑。この琉球松の下に、当時は立て札が建てられていたという。

 

吉屋チルーと恩納ナビー。なぜこれほど、心のままに琉歌にあらわすことができたのだろうか。二人はその境遇や日々の出来事を受け入れるだけではなく、精一杯に自分の意思を言葉にした。二人の志を託した琉歌は、仲島の大岩のように、現代の私にも大きく響き、届いたように思う。

 

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熱気と願いに染まるいなぐの世界 〜年の瀬の牧志公設市場〜
2022.12.20

熱気と願いに染まるいなぐの世界

 

12月、那覇の街にはクリスマスのイルミネーション。なかには半袖Tシャツ、島ぞうりの人もいて、クリスマスと南国のコラボレーションが面白い。 

 

イーノから徒歩3分のところにある牧志公設市場は県民や観光客などが訪れる。年末ともなると、正月の準備をするため女性たちが押し寄せ賑わいを見せる。ちょっと早いが、沖縄の正月を探しに行った。

 

大城うなぎ店二代目の新垣スミ子(あらかき)さんに1960年頃の牧志公設市場の様子を聞いた。「竿秤(さおばかり)っていうの。野菜もお肉もなんでも竿秤で測っていたよ。単位もグラムではなくて一斤二斤。うちのお店では今でも斤で出した。そうじゃないと、オバーたちがわからないの」と当然のように話す。斤というと食パンしか思いつかないが、沖縄では肉も魚も野菜も斤が単位だった。一斤=600g。大家族が多い沖縄ならではだろう。

 

年末は夜の12時までお客さんが途切れなかった。「お母さんに連れられて行った。沖縄そばはこっち、豚肉はこっち、味噌は、昆布は、って店が決まってて半日買い物をしてた。とにかく難儀だった、嫌だった」とイーノお客様担当、宮里静江さん。受付担当の湖城智子さんは「とにかく荷物が重かったのと母が怖かった」。年末の市場はお母さんたちの世界。さぞ賑やかで活気に満ちていただろう。

 

私もその場を体感したくタイムスリップ!

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市場は、生臭さと売り買いの熱気で包まれている。女店主が魚をさばき、肉屋ではナタのような包丁で断ち切る。青、緑、赤にピンクの水玉模様…の魚が丸ごと並ぶ。豚の胃、大腸、腎臓などの内臓や足、顎、耳など部位の肉は種類ごとに分けられ山のように積まれている。お母さんたちは肉を見分ける目を備えていた。質の落ちる肉は姑に怒られるのだ。

 

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背筋がちょっとヒヤッとしたら新垣さんの声が聞こえてきた。「お客さんとの話が楽しかったね。こうやって食べると美味しいよー、とか、しーぶん(おまけ)入れとこうねーとか」。最初は「私なんか話せることないよー」と恥ずかしそうにしていた新垣さんが昔の市場が蘇ってきたのかイキイキと話してくれた。沖縄の人は基本、人が好き。おしゃべりが好き。自分が知っていることは教えてあげたい、自分が知らないことは教えてほしい。人とのコミュニケーションが元気の源だ。

 

一年の締めくくりと来る年への願いがお母さんたちのパワーを生み出していることを年の瀬の市場が教えてくれた。

 

 

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「ただいまー」移民の地から大集合 〜世界のウチナーンチュ大会〜
2022.11.17

「ただいまー」移民の地から大集合

「おかえりー」 「ただいまー」とあちらこちらから聞こえる。

 

世界各地に移住したウチナーンチュ(沖縄出身者)とその子や孫たちが故郷で交流を深める「世界のウチナーンチュ大会」が10月31日〜11月3日の4日間、那覇市で開催。国際通りで前夜祭パレードが行われた。ブラジル、ハワイ、ドイツなど13カ国、26都市からの1600人を含む合計約3000人が民族衣装などを着て、国旗や横断幕を持ち約1 kmを練り歩く。沖縄に帰るのは何十年ぶりという人や初めて訪れた三世、四世もいる。沿道には海外からはるばる帰ってきた人たちを迎えようと大勢の県民がパレードが始まるのを待っている。

 

初めに、「hawaii(ハワイ)」のプラカードが見えた。シャカサインで「アロハ〜」と呼びかけウクレレを弾きながら歩く人、ムームーでフラダンスを踊る人。年代も様々でベビーカーに乗った赤ちゃんから80代くらいの方々まで。「ピ〜ピ〜」「ドドンッ、ドンッ」100m程先から、口笛や低音の太鼓、トランペットの音が響いてくる。ブラジルから来た人たちはスルドやアゴゴの楽器でサンバのリズムを奏で、大きな羽のコステイロを背中につけ、緑や黄色の衣装で踊る。

 

 

戦前の移民は広島や熊本県などと同じく貧しさからハワイやブラジルなどに渡った。戦後は米軍統治という沖縄の特別な理由により南米などに向かった人々は多い。海外へ渡ったウチナーンチュたちは、コミュニティーを作り、お互い助け合い生きてきた。ウチナーンチュという誇りを持ち、沖縄の言葉や文化、歴史を次の世代に引き渡している。20代前半で親や兄弟の反対を押し切り出稼ぎに渡った人もいたそうだ。簡単に戻ってくることはできなかった。嬉しい時、悲しい時、郷愁を募らせる時にはや唄、ウチナーグチ(沖縄の島くとぅば)で心を癒していたのかもしれない。

 

ひときわ大きな拍手が起こった。80代後半くらいの女性が杖をつき、手を振りながら嬉しそうにゆっくり歩いている。沿道の人たちの見守るような視線と拍手には敬意と敬愛の気持ちが込められていた。

 

多くの人たちが帰ってくることが不思議だった。でも、帰ってきた人たち、迎える人たちの言葉、声、笑顔、拍手、空気感でその理由がなんとなくわかった。故郷に帰れる喜びだけではない。遠い地で沖縄のコミュニティーを守ってきた一世としての誇り。沖縄のアイデンティティーを受け継いでいる二世や三世の誇り。そして何より、お互いの祖先や故郷への尊敬と感謝が「ただいま」「おかえり」という言葉に籠められていた。

 

 

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水と風の庭園は華流ドラマの世界 〜那覇市久米・福州園〜
2022.10.17

水と風の庭園は華流ドラマの世界

 

各地では秋の訪れとともに、彼岸花が真っ赤に咲き、コオロギの鳴き声も聴こえているのでしょうか。10月2日、那覇市に出かけた。気温は31度、太陽の日差しが燦々と降り注ぐ真夏日。外に出ると汗がジトーと溢れてくる。

 

久米(くめ)は、那覇市の中心部、沖縄県庁から西へ1‌kmほどの位置にある。その昔、久茂地川などの3つの川と海に囲まれた浮島で、中国や東南アジアの国々との貿易の拠点だった。そこに、約600年前、明の時代、中国から渡来してきた人々が「久米村(クニンダ)」という集落をつくり定住し今も久米という地名で残っている。その頃、琉球は「レキヲ」と呼ばれ、歴史家は大交易時代と名づけている。琉球王国は現在の中国福建省と結んで栄えたのだ。

 

久米にある福州園は、那覇から西へ東シナ海を隔てて約800km、中国の南東に位置する福建省福州市から資材を運んできて、中国の人が設計した中国式庭園。朱色の屋根と白い壁に施された装飾が印象的なをくぐり左手に進むと、赤色の回廊が続く。透かし彫りの窓は、形姿が一つ一つ違う。まるで華流ドラマの中に入り込んだようだ。

 

 

回廊を抜け、沖縄との繋がりも感じる龍柱や今も福州に残る白塔と烏塔を小さくした高さ12mほどの2つの石塔を眺めながら歩いていると長さ4mほどの橋が現れる。万寿橋(まんじゅきょう)だ。万寿橋の上で立ち止まると、が見える。万寿橋とは琉球から福州への進貢などの荷物を陸に上げていた場所。桃花渓(とうかけい)は琉球と福州との交易で航河した福建省最大の河川、を表現している。豊かな水と水際まで伸びた青々とした植物は心を落ち着かせる。琉球からの使節団は緊張感のある航海を終え、このような景色を見て穏やかなひと時を過ごしていたのだろう。

 

見慣れた白い一輪の花。沖縄ではアカバナー(赤い花)と呼ばれ親しまれている。原産は中国南部とも言われている。もしかすると、福州との交易が盛んだった頃、鉄製品や竹製品、胡椒、お茶などと一緒に沖縄にやってきたのかもしれない。

 

流れ続けるザーという水音が徐々に大きくなるのを聴きながら歩く。目の前に高さ10mほどあるだろうか。石灰岩を積んだ山が現れた。岩の間から勢いよく垂直に落ちる水は航河中であれば恐ろしくもあっただろう。訪れたこともない福州の自然の豊かさを感じる。

 

 

1時間ほど、大交易時代の中国の世界を楽しんだ。大門をくぐり出ると、車が行き交ういつもの那覇の街だった。いつもと違う空間が、僅かに吹く秋風を感じさせてくれた。

 

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自然と人と炎が織りなす風合い 〜読谷村・やちむんの里〜
2022.09.16

自然と人と炎が織りなす風合い

 

石畳の道とその脇にポツリポツリと建つ赤瓦の工房。その光景に気持ちが高まる。

 

那覇から北へ車で約1時間、読谷村(よみたんそん)は本島中部、世界遺産のやサトウキビ畑、その先に広がる紺碧の海など自然豊かな地域。やちむん(焼きもの)や織物のなど伝統工芸も受け継がれている。「とにかく地元愛が強くて、読谷の女性は世話好きでちゃきちゃき働く」と読谷村出身の同僚の言葉を思い出した。今日はそんな読谷村にあるやちむんの里へ向かった。

 

やちむんの里には代表的な3つの登り窯と19軒の工房がある。陶芸で沖縄初の人間国宝、さんが登り窯にこだわり読谷を選んだ。その後も多くの陶工がこの地に集まった。

 

車から降り、散歩気分で歩く。のんびりした空気が流れている。常秀工房と書かれた看板に誘われるがままさんの工房に向かった。ぼてっとした直径20 cmほどの皿に沖縄の県花、デイゴのような赤絵の大胆な模様。大皿が目立つ。家族、親戚や友人など大勢に食事を振る舞う文化ならではかもしれない。紺色、緑色、茶色など様々な色が使われている。海、植物、土など沖縄でよく見る自然の色だ。

 

触ると、一枚一枚微妙に感触が違う。自由さの中にも琉球王朝時代の頃から受け継がれてきた「いっちん」や「線彫り」などの伝統的な技法が使われている。いっちんは、スポイトで釉薬を絞り出して表面を立体的に装飾する技法だ。ツルンとした模様とザラザラした土の感触が新鮮だ。線彫りの魚模様は子孫繁栄の願いが込められているそうだ。伝統を守りながらも新しいものにチャレンジしている。やちむんの里は自由に個性が発揮できる新しい空間となっていた。

 

工房を出て右に進むと、斜面の上に赤瓦の屋根、土で頑丈に固められた25 mもある登り窯と出会った。焚き口に薪をくべると斜面に沿って登るように火の熱が伝わっていく。火は1200度以上になり4日間燃やし続ける。風や湿度によって変わる炎。経験をもとに薪のくべ方を調整し焼いていく。全て人の目と手と感覚が加わっているのだ。自然と人と炎によって独特な風合いが生まれる。

 

頭にタオル、一輪車を押す陶工らしき人とすれ違った。ここには陶工たちの暮らしと鍛錬の場が広がっていた。私が感じた「入りにくさ」とはこの張り詰めた空気だった。憧れと強面を感じさせる中に神聖ささえ覚えた。

 

誕生日が近い父へのプレゼントを選んだ。一緒に呑めるチブグヮー(お猪口)を2つ、父の手に馴染みそうな少し厚めの方を。

 

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井坂歩(いさか・あゆみ)

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太陽が味方になった夏の一日
2022.08.16

初めての東村は私を解放した。日傘もささず帽子もかぶらず、太陽を目いっぱい浴びたのだ。

 

東村は沖縄本島北部、世界自然遺産に登録されたの一角を占める。那覇市から車で約2時間。遠いからだろうか。「行ったことがない。どんなところ?」「10年前くらいに行ったかな」という地元沖縄でも詳しく知らない方や行ったことがない方もいる。沖縄で一番のパイナップル産地、手つかずの自然が多く残っている。

 

7月中旬、パイナップル農家、新里善幸(しんざとよしゆき)さん(40歳)の畑を訪問するため東村へ向かった。那覇市から高速自動車道に乗り30分程走ると、沖縄のコンクリート造りの住宅街から、海や小高い山、ダムへと景色はガラリと変わる。高速道路を降りると左側には名護湾が広がる。海底まで見えそうな透き通った碧い海が見える。この景色はこの先起こる楽しいことを想像させ、私をワクワクさせてくれる。

 

東村が近づくにつれ奥深くなる山々。高速道路を降り約40分、東村内に入るとヘゴ類などの亜熱帯の植物が覆いかぶさりそうな勢いでイキイキとしている。山原の中でも豊かな水が植物に勢いを与えている。道路沿いには、こじんまりとした共同売店が見える。

 

脇道に入りしばらく走ると、突然視界が開けた。

 

赤土の広い丘の上には細長い深緑の葉が整然と並び、その中に収穫を間近に控えた青々としたパイナップルの実を抱えている。手入れするたびに腕に傷がつくという分厚い葉、トゲトゲした(実の上の葉)、ゴツゴツした実、すべてが行儀よく可愛らしい。

 

緑のパイナップル畑の先には青い空と青い海。空と海の境界線がわからないくらい青が続く。

 

日差しの強さと暑さに驚いた。日焼け対策の帽子も日傘も車に置いたまま畑へ。那覇では日傘とアームカバー、日陰を探して歩くが、ここではそんなものは必要ない。日焼けを気にしているのが勿体ないくらいの景色と解放感。この時間は、太陽を思い切り浴びて楽しもうと決めた。

 

「晴れが続くと実が大きくなって甘さものるんですよ」と新里さん。

収穫までの約2年、このギラギラとした太陽を栄養に、美味しく育つパイナップル。私も太陽を味方にしたいと思った。

 

ジリジリ突き刺さるような日差しで汗が一滴二滴。それも気にならない。1時間ほどの滞在にすぎなかったが、視界に入るすべての自然から目いっぱい力をもらった。

 

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井坂歩(いさか・あゆみ)

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沖縄こころ旅「垣花樋川(カチヌハナヒージャー)」
2022.08.09

トラ猫と蝉がむかえた水辺の夏

「明日は垣花樋川へ行く予定だけど予報は雨。やめようかな」5月上旬から約1ヶ月半も続く雨、それに加えて仕事の失敗も重なり落ち込んでいた。その気分のまま翌朝を迎えたがカーテンを開けると、なんと数日ぶりの晴天。もう行くしかない。那覇から南東へ車で約30分、南城市の垣花樋川に到着。集落の南側にあり、崖の中腹から出ている湧水。樋川(ヒージャー)とは水脈から樋で水を引き、暮らしの水場を造ったものである。

集落から樋川に続く石畳の下り坂がある。ゴツゴツした琉球石灰岩は、何百年も人々が水場へ通ったことがわかるほど表面が削られツルツルしている。昨晩までの雨と苔で、気を抜くと今にも滑りそうだ。傘を杖代わりにして恐る恐る降りていく。

どうしようかなと怯んでいると目の前に、茶色地にこげ茶色の縞模様のあるトラ猫。「今日はここに行くんだよ」と大きな目で誘うかのように目を逸らさない。50センチ程近づくと、猫はゆっくり動いた。それでも目を逸らさずまだ私の方を見つめていた。

(垣花樋川の主とも思えるような佇まいで私を待っていた猫。)

「ビー、ビッ、ビビー」と雨上がりの太陽を待っていたかのように元気なリュウキュウアブラゼミの声。「ザーーーー」と梅雨の雨を蓄えていたかのように勢いよく水が流れる音。パーっと視界が開け、20m先には浅い池と流れ込む水の筋。私を包むようにあちこちから流水の音が聞こえてきた。豊かな水に誘われたアゲハチョウが舞い、クワズイモは大きな葉を湿らせ艶やかに生きている。

(馬浴川(ウマアミシガー)には、小さな魚が群をなし、天然の美しさ、自然の豊かさで心が癒される。)

 

 ジャブジャブと一番大きな音がする左奥へ。龍の口から水が流れ出ている女川(ヰナグガー)、さらに奥を見ると門構えが立派な男川(ヰキガガー)、見下ろすと先程の池、馬浴川(ウマアミシガー)。気のせいか女川の方が男川よりも水の勢いは強い。男川の奥には拝所(うがんじゅ)が見える。水の神様に感謝を伝えながら水をいただいていたのだろう。

本土復帰の頃までは樋川から流れた水が水田を潤していた。男川と女川は男女別の水浴び場、一番下の馬浴川は農耕馬を洗った。男性は一斗缶を担ぎ、女性は水桶を頭に乗せて石畳の坂道を行き来した。導水管が設置されたのは約70年前だという。この水音の中に子供たちの笑い声や女性たちが賑やかにおしゃべりする声が響いていたのだろう。私が行った日は梅雨だったからだろうか。水の音の中には蝉と私だけがいた。

空からの雨は大地の琉球石灰岩で幾層にもゆっくりとろ過され、流れ出てきた水はとても澄んでいる。水温は23度、心地よい冷たさだった。帰りの上り坂は軽やかだった。樋川の水がモヤモヤした気持ちを流してくれたようだ。

お客様担当 井坂 歩 (いさか・あゆみ)

沖縄こころ旅「浦添城跡・浦添ようどれ」
2022.06.27
琉球王国初期の王の墓。ようどれとは夕凪という意味。別名、極楽陵(ごくらくりょう)。

 

沖縄と京都をつなぐ場所

 京都出身の私は16年前に沖縄に移り住み、沖縄の名所巡りを始めた。すると「こうあらねばならない」という正解探しの考えから不思議と解きほぐされ、自分の心に素直になりたいという思いが湧いてくるのだ。 「ここだけ風が強い・・・」 先程までの水分を含んだ布を纏っているようなジトーっとした暑さがすっかり無くなった。ここは、那覇から北へ車で約30分、浦添市の琉球石灰岩の丘陵に立っている浦添城跡。訪れた4月下旬は亜熱帯独特の湿度が顔を出し始めていたが、標高約130mのグスク(城)の頂上に登ると「ゴーゴー」と唸るような音。海からの強い風で湿度を感じなくなっていた。 西側の緩やかな傾斜の向こうには東シナ海の碧い海岸線、晴れた日には慶良間諸島が見えるそうだ。北には北谷町、かすかに白いリゾートホテルが遠望できる。

 私が立っている丘陵は、77年前、日米の軍隊が熾烈な戦いをしたところだと聞いた。沖縄戦の始まりの慶良間諸島、米軍が上陸した北谷…あんなにも澄んだ碧い海から戦はやってきた。 緑茂る急斜面、その下の集落、この穏やかな景色のなかに、当時の人たちの想いが染み込んでいる。 周りの方々も観光というより、思いを馳せながら歩いているように見えた。私も…と当時もたくさんの人々が生活していたであろう集落、海へと繋がる道を丁寧に丁寧に見渡した。

(77年前、戦がやってきた海の方向を向かいながら当時の集落の様子を思い浮かべた丘陵。)

 また浦添城跡は首里城の原型ともいわれ、いわば琉球王国の始まりを記憶する場所でもある。目の前の東シナ海は中国や日本、朝鮮を結ぶ交流の海でもあった。「浦添ようどれ」という最も古い王たちの墓と石積みが風の道をつくり心地よさを感じるほどだった。

(浦添ようどれにつながる岩盤と石積みでできた通路。ここだけがひんやりとした空気で極楽陵と言われるあの世への想いを感じる。)

 

 目を細めて視線を北側に寄せると、約2km先にある嘉数高台公園内の青い展望台が微かに見えた。その下には、沖縄戦で亡くなった地元の方々の慰霊碑とともに、2,536人もの京都出身の兵士たちが眠る「京都の塔」があるのだ。

 私は未来への希望を持ち16年前京都からこの地に来た。しかし、兵士たちの気持ちは想像を絶するもの。不安だっただろう、心細かっただろう、寂しかっただろう、せめてもう一度だけでも故郷京都で家族に会いたいと願っただろう…色々想像してみたが、自分から出てくるものは彼らには届かない陳腐な感情でしかなく、ただただ自分の中に、今日、これからも見て知ったことを積み重ねていこうと思った。

 浦添城跡は沖縄と京都の繋がりを教えてくれた場所となった。そして、今日は、いろんな時代の沖縄に触れた気がした。

お客様担当 井坂 歩 (いさか・あゆみ)
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