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熱気と願いに染まるいなぐの世界 〜年の瀬の牧志公設市場〜
2022.12.20

熱気と願いに染まるいなぐの世界

 

12月、那覇の街にはクリスマスのイルミネーション。なかには半袖Tシャツ、島ぞうりの人もいて、クリスマスと南国のコラボレーションが面白い。 

 

イーノから徒歩3分のところにある牧志公設市場は県民や観光客などが訪れる。年末ともなると、正月の準備をするため女性たちが押し寄せ賑わいを見せる。ちょっと早いが、沖縄の正月を探しに行った。

 

大城うなぎ店二代目の新垣スミ子(あらかき)さんに1960年頃の牧志公設市場の様子を聞いた。「竿秤(さおばかり)っていうの。野菜もお肉もなんでも竿秤で測っていたよ。単位もグラムではなくて一斤二斤。うちのお店では今でも斤で出した。そうじゃないと、オバーたちがわからないの」と当然のように話す。斤というと食パンしか思いつかないが、沖縄では肉も魚も野菜も斤が単位だった。一斤=600g。大家族が多い沖縄ならではだろう。

 

年末は夜の12時までお客さんが途切れなかった。「お母さんに連れられて行った。沖縄そばはこっち、豚肉はこっち、味噌は、昆布は、って店が決まってて半日買い物をしてた。とにかく難儀だった、嫌だった」とイーノお客様担当、宮里静江さん。受付担当の湖城智子さんは「とにかく荷物が重かったのと母が怖かった」。年末の市場はお母さんたちの世界。さぞ賑やかで活気に満ちていただろう。

 

私もその場を体感したくタイムスリップ!

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市場は、生臭さと売り買いの熱気で包まれている。女店主が魚をさばき、肉屋ではナタのような包丁で断ち切る。青、緑、赤にピンクの水玉模様…の魚が丸ごと並ぶ。豚の胃、大腸、腎臓などの内臓や足、顎、耳など部位の肉は種類ごとに分けられ山のように積まれている。お母さんたちは肉を見分ける目を備えていた。質の落ちる肉は姑に怒られるのだ。

 

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背筋がちょっとヒヤッとしたら新垣さんの声が聞こえてきた。「お客さんとの話が楽しかったね。こうやって食べると美味しいよー、とか、しーぶん(おまけ)入れとこうねーとか」。最初は「私なんか話せることないよー」と恥ずかしそうにしていた新垣さんが昔の市場が蘇ってきたのかイキイキと話してくれた。沖縄の人は基本、人が好き。おしゃべりが好き。自分が知っていることは教えてあげたい、自分が知らないことは教えてほしい。人とのコミュニケーションが元気の源だ。

 

一年の締めくくりと来る年への願いがお母さんたちのパワーを生み出していることを年の瀬の市場が教えてくれた。

 

 

この記事を書いた人

 井坂歩(いさか・あゆみ)

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「ただいまー」移民の地から大集合 〜世界のウチナーンチュ大会〜
2022.11.17

「ただいまー」移民の地から大集合

「おかえりー」 「ただいまー」とあちらこちらから聞こえる。

 

世界各地に移住したウチナーンチュ(沖縄出身者)とその子や孫たちが故郷で交流を深める「世界のウチナーンチュ大会」が10月31日〜11月3日の4日間、那覇市で開催。国際通りで前夜祭パレードが行われた。ブラジル、ハワイ、ドイツなど13カ国、26都市からの1600人を含む合計約3000人が民族衣装などを着て、国旗や横断幕を持ち約1 kmを練り歩く。沖縄に帰るのは何十年ぶりという人や初めて訪れた三世、四世もいる。沿道には海外からはるばる帰ってきた人たちを迎えようと大勢の県民がパレードが始まるのを待っている。

 

初めに、「hawaii(ハワイ)」のプラカードが見えた。シャカサインで「アロハ〜」と呼びかけウクレレを弾きながら歩く人、ムームーでフラダンスを踊る人。年代も様々でベビーカーに乗った赤ちゃんから80代くらいの方々まで。「ピ〜ピ〜」「ドドンッ、ドンッ」100m程先から、口笛や低音の太鼓、トランペットの音が響いてくる。ブラジルから来た人たちはスルドやアゴゴの楽器でサンバのリズムを奏で、大きな羽のコステイロを背中につけ、緑や黄色の衣装で踊る。

 

 

戦前の移民は広島や熊本県などと同じく貧しさからハワイやブラジルなどに渡った。戦後は米軍統治という沖縄の特別な理由により南米などに向かった人々は多い。海外へ渡ったウチナーンチュたちは、コミュニティーを作り、お互い助け合い生きてきた。ウチナーンチュという誇りを持ち、沖縄の言葉や文化、歴史を次の世代に引き渡している。20代前半で親や兄弟の反対を押し切り出稼ぎに渡った人もいたそうだ。簡単に戻ってくることはできなかった。嬉しい時、悲しい時、郷愁を募らせる時にはや唄、ウチナーグチ(沖縄の島くとぅば)で心を癒していたのかもしれない。

 

ひときわ大きな拍手が起こった。80代後半くらいの女性が杖をつき、手を振りながら嬉しそうにゆっくり歩いている。沿道の人たちの見守るような視線と拍手には敬意と敬愛の気持ちが込められていた。

 

多くの人たちが帰ってくることが不思議だった。でも、帰ってきた人たち、迎える人たちの言葉、声、笑顔、拍手、空気感でその理由がなんとなくわかった。故郷に帰れる喜びだけではない。遠い地で沖縄のコミュニティーを守ってきた一世としての誇り。沖縄のアイデンティティーを受け継いでいる二世や三世の誇り。そして何より、お互いの祖先や故郷への尊敬と感謝が「ただいま」「おかえり」という言葉に籠められていた。

 

 

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井坂歩(いさか・あゆみ)

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水と風の庭園は華流ドラマの世界 〜那覇市久米・福州園〜
2022.10.17

水と風の庭園は華流ドラマの世界

 

各地では秋の訪れとともに、彼岸花が真っ赤に咲き、コオロギの鳴き声も聴こえているのでしょうか。10月2日、那覇市に出かけた。気温は31度、太陽の日差しが燦々と降り注ぐ真夏日。外に出ると汗がジトーと溢れてくる。

 

久米(くめ)は、那覇市の中心部、沖縄県庁から西へ1‌kmほどの位置にある。その昔、久茂地川などの3つの川と海に囲まれた浮島で、中国や東南アジアの国々との貿易の拠点だった。そこに、約600年前、明の時代、中国から渡来してきた人々が「久米村(クニンダ)」という集落をつくり定住し今も久米という地名で残っている。その頃、琉球は「レキヲ」と呼ばれ、歴史家は大交易時代と名づけている。琉球王国は現在の中国福建省と結んで栄えたのだ。

 

久米にある福州園は、那覇から西へ東シナ海を隔てて約800km、中国の南東に位置する福建省福州市から資材を運んできて、中国の人が設計した中国式庭園。朱色の屋根と白い壁に施された装飾が印象的なをくぐり左手に進むと、赤色の回廊が続く。透かし彫りの窓は、形姿が一つ一つ違う。まるで華流ドラマの中に入り込んだようだ。

 

 

回廊を抜け、沖縄との繋がりも感じる龍柱や今も福州に残る白塔と烏塔を小さくした高さ12mほどの2つの石塔を眺めながら歩いていると長さ4mほどの橋が現れる。万寿橋(まんじゅきょう)だ。万寿橋の上で立ち止まると、が見える。万寿橋とは琉球から福州への進貢などの荷物を陸に上げていた場所。桃花渓(とうかけい)は琉球と福州との交易で航河した福建省最大の河川、を表現している。豊かな水と水際まで伸びた青々とした植物は心を落ち着かせる。琉球からの使節団は緊張感のある航海を終え、このような景色を見て穏やかなひと時を過ごしていたのだろう。

 

見慣れた白い一輪の花。沖縄ではアカバナー(赤い花)と呼ばれ親しまれている。原産は中国南部とも言われている。もしかすると、福州との交易が盛んだった頃、鉄製品や竹製品、胡椒、お茶などと一緒に沖縄にやってきたのかもしれない。

 

流れ続けるザーという水音が徐々に大きくなるのを聴きながら歩く。目の前に高さ10mほどあるだろうか。石灰岩を積んだ山が現れた。岩の間から勢いよく垂直に落ちる水は航河中であれば恐ろしくもあっただろう。訪れたこともない福州の自然の豊かさを感じる。

 

 

1時間ほど、大交易時代の中国の世界を楽しんだ。大門をくぐり出ると、車が行き交ういつもの那覇の街だった。いつもと違う空間が、僅かに吹く秋風を感じさせてくれた。

 

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井坂歩(いさか・あゆみ)

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自然と人と炎が織りなす風合い 〜読谷村・やちむんの里〜
2022.09.16

自然と人と炎が織りなす風合い

 

石畳の道とその脇にポツリポツリと建つ赤瓦の工房。その光景に気持ちが高まる。

 

那覇から北へ車で約1時間、読谷村(よみたんそん)は本島中部、世界遺産のやサトウキビ畑、その先に広がる紺碧の海など自然豊かな地域。やちむん(焼きもの)や織物のなど伝統工芸も受け継がれている。「とにかく地元愛が強くて、読谷の女性は世話好きでちゃきちゃき働く」と読谷村出身の同僚の言葉を思い出した。今日はそんな読谷村にあるやちむんの里へ向かった。

 

やちむんの里には代表的な3つの登り窯と19軒の工房がある。陶芸で沖縄初の人間国宝、さんが登り窯にこだわり読谷を選んだ。その後も多くの陶工がこの地に集まった。

 

車から降り、散歩気分で歩く。のんびりした空気が流れている。常秀工房と書かれた看板に誘われるがままさんの工房に向かった。ぼてっとした直径20 cmほどの皿に沖縄の県花、デイゴのような赤絵の大胆な模様。大皿が目立つ。家族、親戚や友人など大勢に食事を振る舞う文化ならではかもしれない。紺色、緑色、茶色など様々な色が使われている。海、植物、土など沖縄でよく見る自然の色だ。

 

触ると、一枚一枚微妙に感触が違う。自由さの中にも琉球王朝時代の頃から受け継がれてきた「いっちん」や「線彫り」などの伝統的な技法が使われている。いっちんは、スポイトで釉薬を絞り出して表面を立体的に装飾する技法だ。ツルンとした模様とザラザラした土の感触が新鮮だ。線彫りの魚模様は子孫繁栄の願いが込められているそうだ。伝統を守りながらも新しいものにチャレンジしている。やちむんの里は自由に個性が発揮できる新しい空間となっていた。

 

工房を出て右に進むと、斜面の上に赤瓦の屋根、土で頑丈に固められた25 mもある登り窯と出会った。焚き口に薪をくべると斜面に沿って登るように火の熱が伝わっていく。火は1200度以上になり4日間燃やし続ける。風や湿度によって変わる炎。経験をもとに薪のくべ方を調整し焼いていく。全て人の目と手と感覚が加わっているのだ。自然と人と炎によって独特な風合いが生まれる。

 

頭にタオル、一輪車を押す陶工らしき人とすれ違った。ここには陶工たちの暮らしと鍛錬の場が広がっていた。私が感じた「入りにくさ」とはこの張り詰めた空気だった。憧れと強面を感じさせる中に神聖ささえ覚えた。

 

誕生日が近い父へのプレゼントを選んだ。一緒に呑めるチブグヮー(お猪口)を2つ、父の手に馴染みそうな少し厚めの方を。

 

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井坂歩(いさか・あゆみ)

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太陽が味方になった夏の一日
2022.08.16

初めての東村は私を解放した。日傘もささず帽子もかぶらず、太陽を目いっぱい浴びたのだ。

 

東村は沖縄本島北部、世界自然遺産に登録されたの一角を占める。那覇市から車で約2時間。遠いからだろうか。「行ったことがない。どんなところ?」「10年前くらいに行ったかな」という地元沖縄でも詳しく知らない方や行ったことがない方もいる。沖縄で一番のパイナップル産地、手つかずの自然が多く残っている。

 

7月中旬、パイナップル農家、新里善幸(しんざとよしゆき)さん(40歳)の畑を訪問するため東村へ向かった。那覇市から高速自動車道に乗り30分程走ると、沖縄のコンクリート造りの住宅街から、海や小高い山、ダムへと景色はガラリと変わる。高速道路を降りると左側には名護湾が広がる。海底まで見えそうな透き通った碧い海が見える。この景色はこの先起こる楽しいことを想像させ、私をワクワクさせてくれる。

 

東村が近づくにつれ奥深くなる山々。高速道路を降り約40分、東村内に入るとヘゴ類などの亜熱帯の植物が覆いかぶさりそうな勢いでイキイキとしている。山原の中でも豊かな水が植物に勢いを与えている。道路沿いには、こじんまりとした共同売店が見える。

 

脇道に入りしばらく走ると、突然視界が開けた。

 

赤土の広い丘の上には細長い深緑の葉が整然と並び、その中に収穫を間近に控えた青々としたパイナップルの実を抱えている。手入れするたびに腕に傷がつくという分厚い葉、トゲトゲした(実の上の葉)、ゴツゴツした実、すべてが行儀よく可愛らしい。

 

緑のパイナップル畑の先には青い空と青い海。空と海の境界線がわからないくらい青が続く。

 

日差しの強さと暑さに驚いた。日焼け対策の帽子も日傘も車に置いたまま畑へ。那覇では日傘とアームカバー、日陰を探して歩くが、ここではそんなものは必要ない。日焼けを気にしているのが勿体ないくらいの景色と解放感。この時間は、太陽を思い切り浴びて楽しもうと決めた。

 

「晴れが続くと実が大きくなって甘さものるんですよ」と新里さん。

収穫までの約2年、このギラギラとした太陽を栄養に、美味しく育つパイナップル。私も太陽を味方にしたいと思った。

 

ジリジリ突き刺さるような日差しで汗が一滴二滴。それも気にならない。1時間ほどの滞在にすぎなかったが、視界に入るすべての自然から目いっぱい力をもらった。

 

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井坂歩(いさか・あゆみ)

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沖縄こころ旅「垣花樋川(カチヌハナヒージャー)」
2022.08.09

トラ猫と蝉がむかえた水辺の夏

「明日は垣花樋川へ行く予定だけど予報は雨。やめようかな」5月上旬から約1ヶ月半も続く雨、それに加えて仕事の失敗も重なり落ち込んでいた。その気分のまま翌朝を迎えたがカーテンを開けると、なんと数日ぶりの晴天。もう行くしかない。那覇から南東へ車で約30分、南城市の垣花樋川に到着。集落の南側にあり、崖の中腹から出ている湧水。樋川(ヒージャー)とは水脈から樋で水を引き、暮らしの水場を造ったものである。

集落から樋川に続く石畳の下り坂がある。ゴツゴツした琉球石灰岩は、何百年も人々が水場へ通ったことがわかるほど表面が削られツルツルしている。昨晩までの雨と苔で、気を抜くと今にも滑りそうだ。傘を杖代わりにして恐る恐る降りていく。

どうしようかなと怯んでいると目の前に、茶色地にこげ茶色の縞模様のあるトラ猫。「今日はここに行くんだよ」と大きな目で誘うかのように目を逸らさない。50センチ程近づくと、猫はゆっくり動いた。それでも目を逸らさずまだ私の方を見つめていた。

(垣花樋川の主とも思えるような佇まいで私を待っていた猫。)

「ビー、ビッ、ビビー」と雨上がりの太陽を待っていたかのように元気なリュウキュウアブラゼミの声。「ザーーーー」と梅雨の雨を蓄えていたかのように勢いよく水が流れる音。パーっと視界が開け、20m先には浅い池と流れ込む水の筋。私を包むようにあちこちから流水の音が聞こえてきた。豊かな水に誘われたアゲハチョウが舞い、クワズイモは大きな葉を湿らせ艶やかに生きている。

(馬浴川(ウマアミシガー)には、小さな魚が群をなし、天然の美しさ、自然の豊かさで心が癒される。)

 

 ジャブジャブと一番大きな音がする左奥へ。龍の口から水が流れ出ている女川(ヰナグガー)、さらに奥を見ると門構えが立派な男川(ヰキガガー)、見下ろすと先程の池、馬浴川(ウマアミシガー)。気のせいか女川の方が男川よりも水の勢いは強い。男川の奥には拝所(うがんじゅ)が見える。水の神様に感謝を伝えながら水をいただいていたのだろう。

本土復帰の頃までは樋川から流れた水が水田を潤していた。男川と女川は男女別の水浴び場、一番下の馬浴川は農耕馬を洗った。男性は一斗缶を担ぎ、女性は水桶を頭に乗せて石畳の坂道を行き来した。導水管が設置されたのは約70年前だという。この水音の中に子供たちの笑い声や女性たちが賑やかにおしゃべりする声が響いていたのだろう。私が行った日は梅雨だったからだろうか。水の音の中には蝉と私だけがいた。

空からの雨は大地の琉球石灰岩で幾層にもゆっくりとろ過され、流れ出てきた水はとても澄んでいる。水温は23度、心地よい冷たさだった。帰りの上り坂は軽やかだった。樋川の水がモヤモヤした気持ちを流してくれたようだ。

お客様担当 井坂 歩 (いさか・あゆみ)

沖縄こころ旅「浦添城跡・浦添ようどれ」
2022.06.27
琉球王国初期の王の墓。ようどれとは夕凪という意味。別名、極楽陵(ごくらくりょう)。

 

沖縄と京都をつなぐ場所

 京都出身の私は16年前に沖縄に移り住み、沖縄の名所巡りを始めた。すると「こうあらねばならない」という正解探しの考えから不思議と解きほぐされ、自分の心に素直になりたいという思いが湧いてくるのだ。 「ここだけ風が強い・・・」 先程までの水分を含んだ布を纏っているようなジトーっとした暑さがすっかり無くなった。ここは、那覇から北へ車で約30分、浦添市の琉球石灰岩の丘陵に立っている浦添城跡。訪れた4月下旬は亜熱帯独特の湿度が顔を出し始めていたが、標高約130mのグスク(城)の頂上に登ると「ゴーゴー」と唸るような音。海からの強い風で湿度を感じなくなっていた。 西側の緩やかな傾斜の向こうには東シナ海の碧い海岸線、晴れた日には慶良間諸島が見えるそうだ。北には北谷町、かすかに白いリゾートホテルが遠望できる。

 私が立っている丘陵は、77年前、日米の軍隊が熾烈な戦いをしたところだと聞いた。沖縄戦の始まりの慶良間諸島、米軍が上陸した北谷…あんなにも澄んだ碧い海から戦はやってきた。 緑茂る急斜面、その下の集落、この穏やかな景色のなかに、当時の人たちの想いが染み込んでいる。 周りの方々も観光というより、思いを馳せながら歩いているように見えた。私も…と当時もたくさんの人々が生活していたであろう集落、海へと繋がる道を丁寧に丁寧に見渡した。

(77年前、戦がやってきた海の方向を向かいながら当時の集落の様子を思い浮かべた丘陵。)

 また浦添城跡は首里城の原型ともいわれ、いわば琉球王国の始まりを記憶する場所でもある。目の前の東シナ海は中国や日本、朝鮮を結ぶ交流の海でもあった。「浦添ようどれ」という最も古い王たちの墓と石積みが風の道をつくり心地よさを感じるほどだった。

(浦添ようどれにつながる岩盤と石積みでできた通路。ここだけがひんやりとした空気で極楽陵と言われるあの世への想いを感じる。)

 

 目を細めて視線を北側に寄せると、約2km先にある嘉数高台公園内の青い展望台が微かに見えた。その下には、沖縄戦で亡くなった地元の方々の慰霊碑とともに、2,536人もの京都出身の兵士たちが眠る「京都の塔」があるのだ。

 私は未来への希望を持ち16年前京都からこの地に来た。しかし、兵士たちの気持ちは想像を絶するもの。不安だっただろう、心細かっただろう、寂しかっただろう、せめてもう一度だけでも故郷京都で家族に会いたいと願っただろう…色々想像してみたが、自分から出てくるものは彼らには届かない陳腐な感情でしかなく、ただただ自分の中に、今日、これからも見て知ったことを積み重ねていこうと思った。

 浦添城跡は沖縄と京都の繋がりを教えてくれた場所となった。そして、今日は、いろんな時代の沖縄に触れた気がした。

お客様担当 井坂 歩 (いさか・あゆみ)
【沖縄こころ旅】岩場に咲く朝顔に出会った
2022.05.23

 京都出身の私は、パワースポット巡りが好きで、恋愛運、健康運など、いわば「ご利益」を目的に奈良や三重まで足を伸ばしていた。
でも16年前に沖縄に移り住み、沖縄のパワースポットに行くと私の思いは変わってきた。「こうあらねばならない」という考えから解放され、自分の気持ちに素直に、今を楽しみたいという思いが湧いてくる。

 早朝6時、沖縄本島南部の南城市大里へ。車で30分ほど走ると、那覇の街並みからサトウキビ畑の広がる風景へとがらりと変わる。冬の収穫期を迎え、細いキビはすくっと立って穂先はゆらゆらと風に乗りながらなびいている。その風は豚舎からの匂いも運んできて、なぜか懐かしく感じる。キビの葉音と豚さんたちの匂いを「満喫」した頃に、琉球王朝よりやや古い時代にあった「島添大里(しましーおおざと)グスク」に到着。

 小高い丘の上にある展望台に登ると、太平洋側は中城湾、円弧に描かれた静かな海が広がる。グスク同士が覇を競った時代、中城湾の北側には勝連城が、その左には中城城、さらに北西には首里城が見渡せたといわれる。心を過去に寄せながら、ふーっと深呼吸。グスクに茂るアコウなどの林からは鶯やリュウキュウツバメらしき野鳥がさえずり、下の方の民家からは鶏が朝を告げていた。海側からは遠く、漁船のエンジン音がどこかのんびりと届く。ひと呼吸、ふた呼吸…するごとに自分が落ち着いていくのがわかった。

(過去と現在が交差している島添大里グスクの展望台から眺めた「中城湾」)

 

 展望台から降り暫く歩くと、いくつかの御嶽(うたき)や拝所(うがんじゅ)があった。沖縄の城(グスク)は、戦いや支配のためだけではなく、祈りを捧げる場となっていた。説明書きなどはほとんど無い。クワズイモや月桃が生い茂る。自然のまま佇み静かで、このあるがままの沖縄が私は好きなんだ、とあらためて感じた。「こうあらねばならない」という固くなった心がほどけていった。

 
 ゴツゴツした隆起珊瑚を踏みしめる。グッグッという音、足裏が痛くなる。岩場に咲く一輪のむらさき色の朝顔に力強さを感じ、心の中でストンと何かが落ち、新しい始まりを感じた。「見つけた!」今日はこの朝顔に会うためにここに来たのかもしれない、と嬉しくなった。

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お客様担当 井坂 歩 (いさか・あゆみ)

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