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国際大国・中国は、なぜ、小国・琉球を優遇したのか?
2022.12.01

一四〇四年、足利義満は日・明(中国)間の勘合貿易を開設します。だが、琉球は、それより三二年も先立つこと一三七二年、中国との朝貢貿易を実行しています。

 

大国・中国が、小国・琉球に対して行った特恵措置は、次の通りです。(一)鎖国を実施していた中国への入港を許可。(二)琉球が朝貢する数倍もの見返り品である、絹織物、鉄製品、薬品等の珍品、奇品を下賜。(三)琉球国にのみ、北京での商いを許可。(四)琉球国のみ、毎年七名の特待留学生を中国の経費で七年間、国立大学・国子監へ受け入れる。(五)皇帝主催の宴に、招待される。しかも、上座に席を設ける。(六)当時、世界最大の木造船、二百名乗りの大型ジャンクを毎年支給する。

 

これらの待遇は、他の日本、朝鮮には適用しないものもありました。なぜ、琉球のような小さな国に、中国はとくべつの扱いをしたのか?中国は、五千分の一の面積しかない琉球の国土に関しては、ほとんど魅力を感じてはいませんでした。

(中国との窓口を務めた久米三六姓・村跡)

 

支配地を見張るための明国の役人を常駐させていないことでも明らかです。また、琉球の国王の人選にも、干渉していませんでした。琉球が献納する生産物に関しても、それほどの関心は示していませんでした。

 

特別待遇の最大の理由として、硫黄の安定確保を琉球国に求めています。中国大陸は、火山がないために、硫黄はとれません。南中国で温泉が出る程度です。中国の古い産業事典「天工開物」には、「炭・硝石・硫黄」を原料とした火薬の作り方が記録されています。

 

しかも、硫黄は「琉球硫黄」として書かれています。中国の世界的発明品である火薬には琉球・硫黄鳥島の硫黄が必需品として使われていました。

 

おそらく、中国の漂流者が硫黄鳥島に上陸し、硫黄を持ち帰り火薬の材料として使われるようになったものと考えられます。硫黄は、最初は長寿の薬、また胃薬として用いられたとあります。火薬は中国皇帝の独占となり、中国支配の最新の武器として使用されます。

(中国留学生出身の一人。三司官・蔡温)

 

武器だけではなく、大河の河川工事や、道路の整備などにも広く活用されるようになり、ヨーロッパに渡ると、現代のダイナマイトのルーツとなっていきました。

 

毎年、琉球は中国の要求通り、約七トンの硫黄を献納しています。琉球史には硫黄が届けられたことは書かれていますが、何の目的で献納されたかは書かれていませんでした。

 

中国は、琉球硫黄の確保のために琉球王国を必要としていたのです。

 

★ご質問も承っておりますのでお気軽にお寄せください。

亀島靖(かめしま・やすし)さん
1943年生まれ、那覇市出身、早稲田大学卒業。
歴史小説、歴史劇シナリオなど著作多数。
テレビやラジオのプロデューサーでも活躍。

 

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琉球王国は、どのようにして生まれたのか?
2022.11.17

一三六八年(足利義満、十一才で征夷大将軍即位)中国には「明」という漢民族の王朝が誕生します。その前の「元王朝」は北方民族のモンゴル人が作った国で約百年間続いていました。中国は、北方民族と中央の漢民族のあいだでくりかえされた、果てしない戦いの歴史を持った国です。

 

明王朝は、漢民族が世界の中心という「中華(中夏)」思想のもとに周囲の国々をしたがえようと考えました。明の皇帝は、中国に貢ぎ物を持って挨拶に来る国に、国王の役目と位を授ける「冊封(さっぽう)」というシステムを作り出します。

 

これは、中国をリーダーとした友好国契約で中国の属国になると言うことではありませんでした。皇帝は日本、高麗(朝鮮半島)、東南アジア等周囲の国々に冊封を受け入れるように使いを出します。

 

一三六九年、太宰府を治めていた後醍醐天皇の皇子、懐良親王はこの要請を断り使者を追い返します。この時の使者、揚載は三年後、一三七二年に沖縄島をおとずれ浦添の支配者、察度に冊封をすすめます。彼は、日本国の失敗をくり返さないために、当時、世界最大の木造船(ジャンク)三隻を率いた艦隊で威嚇しながらの交渉を勧めました。

明国・揚載が来沖したジャンク(想定図)

 

察度は、大国・中国と争いをおこさず、友好的に先進国・中国の文化と文明をとりいれる方法をえらび、冊封の制度を受け入れました。冊封は、中国に貢ぎ物をとどける朝貢、進貢の役割をともないます。

 

沖縄からの第一回の進貢品の中には、象牙、胡椒、瑪瑙(めのう)等の東南アジアの特産品、等がふくまれていました。これらの事実は、察度がすでに東南アジアと交易を開設していたことをものがたっています。

 

また、中国の要望による硫黄鳥島の硫黄も進貢されています。中国大陸は、火山がないため火薬の材料である硫黄は産出せず、沖縄から調達していたものと思われます。

中国に貢いだ硫黄島の硫黄

 

さらに海外交易を通じて東南アジアや諸外国の情報を手に入れており、中国・明王朝の国力、国策を正確に判断していたことになります。もっとも、冊封をうけいれる五五年前の一三一七年、宮古島民がシンガポールに航海していた史実は、ウチナーンチュが私たちの想像を超える、はるかな昔から外国と交流をしていたことがわかります。

 

一三七二年、朝貢貿易の結果、察度は明皇帝から「琉球」の国名と王名を下賜(かし)され、ここに「琉球王国」が誕生することになります。

 

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亀島靖(かめしま・やすし)さん

1943年生まれ、那覇市出身、早稲田大学卒業。

歴史小説、歴史劇シナリオなど著作多数。

テレビやラジオのプロデューサーでも活躍。

 

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沖縄の世界遺産とは?
2022.10.17

世界遺産とは、ユネスコ・国連機関が次の時代の人々へ、大切に守り残すべき「人類共通の遺産」と定めたものです。ピラミッド、タージマハール宮殿、万里の長城などの文化遺産、グランドキャニオン、ガラパゴス諸島などの自然遺産、峨眉山(中国)と楽山大佛のように自然と文化が一体となった複合遺産の三つのグループに分かれます。

 

日本には、自然遺産の鹿児島県屋久島、文化遺産の古都京都の文化財、厳島神社など、多数の世界遺産があります。沖縄県では、二〇〇〇年に九つの史跡が「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」として世界遺産の登録を受けました。

 

十四世紀後半から十八世紀にかけて生まれた琉球王国の文化が世界の文化遺産として認められたことになります。フランス・ベルサイユ宮殿、ペルー・マチュピチュ等の有名な世界遺産と沖縄の文化遺産が同じ価値を持つと評価されたわけです。

 

今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽、の九つの文化遺産が世界遺産として登録されています。

 

各城跡は、琉球の歴史が戦国から平和の時代へと大きく動いていく中で、それぞれ重要な役割を持っていた城(グスク)です。沖縄では、グスクは戦のための要塞、また、グスクは御宿(ぐしゅく)の変化したもので、神域を意味します。祖霊を祀る御嶽が、グスク・城内にあるのも琉球国の特色で、本土の城との違いとも言われます。

 

グスクの代表格「首里城正殿」

 

祖霊をまつる御嶽の門である園比屋武御嶽の石門と、王家の墓陵である玉陵は、驚くほどの高度な石造建築の技術が駆使されていると評価されています。また、王家の別荘である識名園は、本土にも例を見ない琉球独特の文化をデザインした庭園で、戦前は日本の名園としても登録されていました。

 

和・琉・中の融合「識名園」

 

斎場御嶽は、王国時代の人々が神々を祀る場所として最も大事にされていた聖域で、国の行事を行う場所でもありました。それぞれの世界遺産史跡は、琉球王朝の文化と歴史を語るときになくてはならないものばかりです。

 

精神文化の象徴「斎場御嶽」

 

これらの世界遺産は最北の今帰仁城から南端の斎場御嶽まで、直線距離約、七十キロの間に点々として連なっています。現代人は、王国の先人達が残した歴史と文化の結晶をこれから次の世代に送り渡す責任を持つことになります。

 

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亀島靖(かめしま・やすし)さん

1943年生まれ、那覇市出身、早稲田大学卒業。

歴史小説、歴史劇シナリオなど著作多数。

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沖縄人の祖先・港川人と縄文人のつながり?
2022.09.16

歴史全体を見るときには、大河の流れを見るように歴史の原点から見た方がわかりやすいと言われます。最初、無人島だった琉球列島、また日本列島に人類が現れたのは、今から約四万年以上前の頃です。琉球列島にいた最も古い人は、山下町洞人(どうじん)と考えられます。那覇市山下町の民家の洞窟から発見された三万七千年前の八才の少女の人骨化石が、現在、一番古い沖縄人ということになっています。

 

復帰前の昭和三七年(1962)、私有地の庭にあった墓地の隣の洞窟から偶然、神事をしていたユタ(民間霊媒師)が発見しました。その後、平成十九年(2007)の東大の再調査により三万七千年前の人骨と認定され、日本最古の人骨化石となっています。

 

昭和四五年(1970)、一市民の大山盛保氏によって沖縄具志頭(ぐしちゃん)・港川で二万年前の旧石器人骨・港川人が発見され東大鈴木尚博士が調査の上、確認しました。当時の日本考古学会をゆるがすほどの一大ニュースとなりました。

 

中央奥が港川人発掘の高さ30mの石切場

 

続いて、平成二九年(2017)石垣島の空港建設地から二万七千年前の人骨が出土しています。全身骨格がみつかった人骨としては日本最古のものとされています。二万五千年前の宮古島のピンザアブ人、二万年前の港川人等々、不思議なことに、一万年以上前の人骨化石の九割は、琉球列島から発見されています。地中の人骨が溶ける本土の火山性の酸性土壌ではなく、珊瑚礁アルカリ性の沖縄の土壌が骨を溶かさずに化石にするのが、その理由です。

 

これらの発見は、近年、日本人の起源に迫るものとして東大、国立科学博物館の研究課題とされています。日本人の起源と言われる縄文人と、港川人はその特徴が非常によくにている。さらに、近隣のアジア諸国で発掘された後期旧石器時代の人骨の古い形質もあわせ持っている。アジア諸国から渡来した人々が、縄文人へと変化していったとの考え方にそうと、港川人こそ日本各地域に拡散した縄文人の祖先集団とのつながりを持つと考える可能性がある。

 

発掘洞窟・入り口

 

ある人類学者は、具体的に「港川人は、頭と顔の特徴が縄文人によく似ている。言ってみれば、縄文人の特徴をもっと強くして、原始的にしたのが港川人であり、頭と顔の特徴で見ると港川人がそのまま進歩して縄文人になったとしても不思議はない」と述べています。

 

左側・縄文人。右側・港川人の復元図

 

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1943年生まれ、那覇市出身、早稲田大学卒業。

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「うるま、レキオ、とは?」
2022.08.16

「ウチナー」「琉球」「沖縄」の他にも、「うるま」「レキオ」の名称があります。「うるま」とは、安土桃山時代「本能寺の変」(一五八二年)で織田信長を討った明智光秀に関係します。光秀に尊皇思想と、和歌の道を教えた連歌師、里村紹巴(さとむらじょうは)がいます。彼は、信長、秀吉、家康等の戦国武将達と親しく、光秀にも連歌を教授していました。

 連歌とは、短歌の上の句、下の句を交互に十数名で詠み合う歌会の様式です。里村は、平家物語に出てくる「おきなは」を、古語の「うる(砂)ま(島)」、すなわち、砂地の島と表現し、歌の世界での代名詞と決めました。以降、和歌に詠まれる際には「沖縄」を意味する言葉として定着し、逆に沖縄にも伝わります。沖縄の「砂川」姓は、「うるか」さんと呼ばれる時代もありました。現在、県内には「うるま」市も誕生しています。

 「レキオ」とは、日本が戦国時代のまっただ中、十五世紀から十六世紀のヨーロッパ東アジア進出時代に生まれた言葉です。中国で発明された羅針盤がヨーロッパに普及し、造船技術も向上しヨーロッパ各国の野心はアジア地域へと向かいます。海外交易の拡大、植民地の獲得、世界航路の開拓、キリスト教の布教などがヨーロッパ諸国のアジア進出の大きな目的でした。さらに、アジア進出のもう一つの目的がありました。それは、アジアでしか取れない「胡椒」です。当時のヨーロッパでは、コレラ、ペスト等、不死の病の特効薬として「胡椒」が珍重されていました。胡椒が生肉の腐敗を遅らせることが風評の原因と言われています。現在、八重山で胡椒は「ピパーチ」と呼ばれていますが、ペッパーが変化した言葉で、この時代の名残の一つと言われています。ヨーロッパ人は胡椒と同量の金で取引したと言われます。フィリピンの港に停泊していたポルトガル船の船長は、「ミズスマシ」のような小舟で湾内を動き回る集団を見て、「彼らは色も白いが何者だ?」と現地人に尋ねると次の様な返事が返ってきました。「彼らは、琉球人で以前からこの国に出入りしています」との答えに、船長は、「レキオ人」と発音した言葉が、「レキオ=琉球」と定着したのです。「ウチナー」以外の「琉球」「沖縄」「うるま」「レキオ」は、すべて異国人が提唱した名称と言えます。これらの交流の歴史が、日本史と違うと言われる独特の琉球史を形成したと言われています。

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亀島 靖 先生の「琉球歴史 謎とロマン」
2022.08.08

「琉球」、「沖縄」…の違いとは? その二

「ウチナー」とは、「沖縄」の方言の発音だと考えられていますが、二つの言葉は、その意味はまったく違うのです。ウチナーは、もっとも古い名前で、沖縄の古代人たちが創造したものです。おそらく五千年以上も前、黒潮の海流に乗って渡来したウチナーンチュ(沖縄人)のルーツの海洋民族または、黒潮民族によって作られたのが「ウチナー」です。

語源は、東南アジアのサンスクリット語とも言われ、「ウチ」は「大きい」を意味し、「ナー」は、「漁場」を表わし、ウチナーとは大きな豊かな漁場を表わしています。西暦七五三年、唐招提寺を創建した鑑真和上が日本に招かれた時、沖縄に立ち寄りました。沖縄で、現地の人から島の名前を聞いた鑑真の弟子は、「阿児奈波(ウチナー)」と当て字をして記録しています。「那覇」も、「ナー(魚場)、「ファー(場所)」の意味と考えられています。

まるで縄の様に、海上に細く浮かぶ島・・・・沖縄。

五年に一度、沖縄県主催の「世界のウチナーンチュ大会」があります。沖縄人は「琉球人大会」のネーミングには抵抗を感じます。しかし、ウチナーという言葉は、沖縄自身の言葉なので、遺伝子として体が受け入れる面があり、誰も異論をはさむ人はいません。

琉球国最大の教育者、名護親方(程順則)。世界で初めて「台風」を命名。

「沖縄」という名称は、十八世紀初期に誕生したと伝わっています。江戸時代、琉球王国は新国王の世変わり、また、徳川幕府の新将軍誕生の時は、祝意と感謝の挨拶のために江戸まで使節団を派遣しました。総勢百名余、往復に一年かかるという国家イベントを実施しています。琉球を代表する学者名護親方、玉城朝薫も使いとして派遣されています。

日本の一流の学者であった新井白石、室鳩巣は琉球の文化人たちと交流し、琉球が持っていたアジアの最新情報を入手し研究材料としています。新井白石は、琉球国も深く研究し「南島志」という本を著しています。余りにも詳しいので、当時の江戸人たちは白石自身が、琉球国に渡ったと錯覚したほどでした。白石は、この本の中で、「琉球の本島は、まるで縄の様に沖に浮かぶ島であると表現し「沖縄」という漢字を用いました。以後、日本本土からは「沖縄」と呼ばれるようになり、明治維新後の廃藩置県の時、明治政府は琉球を改め「沖縄県」と決定します。その意味では、「ウチナー」と「沖縄」は、全く、意味が異なることになるわけです。(続く)

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新国王誕生の行幸(首里城祭での復元写真)

亀島 靖(かめしま・やすし)さん 1943年生まれ、那覇市出身、早稲田大学卒業。 歴史小説、歴史劇シナリオなど著作多数。 テレビやラジオのプロデューサーでも活躍。

【劇作家 亀島靖さんと行く琉球史探訪】小さな島にアジアの文化
2022.05.23
亀島 靖(かめしま・やすし)さん
1943年生まれ、那覇市出身、早稲田大学卒業。歴史小説、歴史劇シナリオなど著作多数。
テレビやラジオのプロデューサーでも活躍。

 

アジアの文化とつながっている沖縄

「織田信長に匹敵するのは琉球を統一した英雄・尚巴志(しょうはし)、明智光秀なら滅ぼされた 阿麻和利(あまわり)でしょうか…」。 日本史で誰もが知る戦国武将に照らし合わせながら15~16世紀頃の琉球王国の動乱の歴史に活躍した人物をわかりやすく紹介する劇作家の亀島靖さん。テレビ、ラジオなど幅広い取り組みで活躍中。地元沖縄のリスナーからは「ダンディーな声に聴き入ってしまう」と低音響く亀島ヴォイスも好評。琉球史をわかりやすく語る亀島さんにファンは多い。

 

神女が結ぶアジアの母系社会

「沖縄の文化や歴史はアジア全体とつながっています。神女が御嶽(うたき)を拝む信仰は南太平洋の母系社会の文化圏に連なります。人工衛星の高さからみると、中国、日本、東南アジア、南太平洋が琉球を中心として広がって見えてきます。島は小さくともアジアの文化が集中していると言っても過言ではありません。画家の岡本太郎曰く、『日本の文化の原点がある』と。宝石の原石みたいな面白さが琉球の歴史にはあるのだと思っています」

 

日本の原点とも言われる沖縄

「民俗学の柳田國男も『日本の歴史や文化は、 沖縄が原点となっている』という言い方をしています。日本史の再発見があるかもしれない。沖縄の人は宝の山の中にいてその価値を知らない。身の回りのものと歴史を結びつけ、難しい話はやわらかく、やわらかい話は面白く、面白い話は深く…そのように心がけています」

(聞き手 お客様担当 おおしろ・みか)

アーチ型の石門は、中国様式を取り入れた沖縄で最も優れた石造建築の1つである=那覇市泊崇元寺

 

【取材を終えて】首里まで続く道で感じたこと

亀島さんと訪ねた「崇元寺」(そうげんじ)。それまでは、バス停にある大きな石垣としか思っていなかった。ところがそこは、歴代琉球王国を祀り、大切な交易港である那覇の港と首里の途中にあることがわかった。
琉球史の謎とロマンをめぐる旅をぜひ味わって欲しい…。そのような企画ができないかと夢が膨らみました。

この記事を書いた人

大城 美佳(おおしろ・みか)
お客様担当歴20年。「おおき」でも「おおぎ」でもなく「おおしろ」と読み、沖縄では3番目に多い苗字です。「大城さん」と結婚したので、今も昔も大城です。

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