琉球王国は、どのようにして生まれたのか?

一三六八年(足利義満、十一才で征夷大将軍即位)中国には「明」という漢民族の王朝が誕生します。その前の「元王朝」は北方民族のモンゴル人が作った国で約百年間続いていました。中国は、北方民族と中央の漢民族のあいだでくりかえされた、果てしない戦いの歴史を持った国です。

 

明王朝は、漢民族が世界の中心という「中華(中夏)」思想のもとに周囲の国々をしたがえようと考えました。明の皇帝は、中国に貢ぎ物を持って挨拶に来る国に、国王の役目と位を授ける「冊封(さっぽう)」というシステムを作り出します。

 

これは、中国をリーダーとした友好国契約で中国の属国になると言うことではありませんでした。皇帝は日本、高麗(朝鮮半島)、東南アジア等周囲の国々に冊封を受け入れるように使いを出します。

 

一三六九年、太宰府を治めていた後醍醐天皇の皇子、懐良親王はこの要請を断り使者を追い返します。この時の使者、揚載は三年後、一三七二年に沖縄島をおとずれ浦添の支配者、察度に冊封をすすめます。彼は、日本国の失敗をくり返さないために、当時、世界最大の木造船(ジャンク)三隻を率いた艦隊で威嚇しながらの交渉を勧めました。

明国・揚載が来沖したジャンク(想定図)

 

察度は、大国・中国と争いをおこさず、友好的に先進国・中国の文化と文明をとりいれる方法をえらび、冊封の制度を受け入れました。冊封は、中国に貢ぎ物をとどける朝貢、進貢の役割をともないます。

 

沖縄からの第一回の進貢品の中には、象牙、胡椒、瑪瑙(めのう)等の東南アジアの特産品、等がふくまれていました。これらの事実は、察度がすでに東南アジアと交易を開設していたことをものがたっています。

 

また、中国の要望による硫黄鳥島の硫黄も進貢されています。中国大陸は、火山がないため火薬の材料である硫黄は産出せず、沖縄から調達していたものと思われます。

中国に貢いだ硫黄島の硫黄

 

さらに海外交易を通じて東南アジアや諸外国の情報を手に入れており、中国・明王朝の国力、国策を正確に判断していたことになります。もっとも、冊封をうけいれる五五年前の一三一七年、宮古島民がシンガポールに航海していた史実は、ウチナーンチュが私たちの想像を超える、はるかな昔から外国と交流をしていたことがわかります。

 

一三七二年、朝貢貿易の結果、察度は明皇帝から「琉球」の国名と王名を下賜(かし)され、ここに「琉球王国」が誕生することになります。

 

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亀島靖(かめしま・やすし)さん

1943年生まれ、那覇市出身、早稲田大学卒業。

歴史小説、歴史劇シナリオなど著作多数。

テレビやラジオのプロデューサーでも活躍。

 

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