琉球国を支えた人物・舜天(しゅんてん)王とは ? ①

琉球王国は、一三七二年から一八七九年までの五百七年間存続しました。万世一系の日本邦を除いては、中国、朝鮮国、東南アジア等では、通常一王朝が存在する期間は約、三百年といわれていますが、琉球王朝はその面から長期型王朝だったと言えます。

 

琉球最古の歴史書「中山世鑑」(十七世紀)に、琉球最初の国王と記録されているのは、舜天王(1166~1237)です。当初は、実在かどうかが議論されましたが、各地の遺跡、遺物などにより近年は、平安から鎌倉時代にかけての実在の人物とされています。

 

舜天にまつわる文献はほとんど少なく、伝説、口承の世界に包まれた人物と言えます。その出生にまつわる伝承は、源為朝の遺児としての誕生につながります。「世鑑」に記された内容は、次の通りです。

 

為朝は、保元の乱(1156)に敗れて伊豆大島に流刑になります。彼は、鹿児島の阿多一族に助けられて島を脱出し、平清盛の追っ手をのがれ奄美大島、琉球列島と南島へと落ち延びていきます。その結果、本土から沖縄本島へと上陸した為朝は、南部の按司(あじ・豪族)の妹と結ばれ男子・舜天をもうけます。

 

 

(舜天親子の住居跡。場所:牧港)

 

為朝は、本島中部の牧港から妻子を連れて本土への帰還を試みます。だが、女性の乗船を拒む龍神の怒りで船が進まず、泣く泣く妻子を残して単独で本土へもどります。その後、牧港に残った舜天が成長し、王都である浦添を支配する琉球開闢(かいびゃく・初)の王となります。舜天が浦添に築いた王朝が、沖縄初の舜天王朝となります。

 

(為朝が本土へ出発した牧港川)

 

 

為朝来沖の伝説は、昔話の「貴子流離譚」のパターンと言われます。源義経や、為朝などの悲運の英雄(貴子)が都を追われ各地をさまようという話は、「判官びいき」の素材が基礎となって生まれた伝説と考えられます。

 

為朝本人が沖縄に来た史実の可能性は低く、むしろ、たびたびの源平の戦などで敗れた落ち武者達が、北風や南下する潮流に乗って来沖する機会はひんぱんに発生しています。当時の「おもろ(沖縄の古謡集)」には、本島北部・本部(もとぶ)に上陸する「大和の若武者」を詠んだ歌も記録されています。

 

この歌を「為朝来沖」を謡ったものと誤解した歴史学者もいるほどです。舜天の父親も、当時、来沖した大和武士の一人と推察することができます。舜天は、父親の影響を受けて、日本語、いろは文字をあつかう才覚を発揮し、浦添の若きリーダーとして成長していきます。琉球では産出しない「鉄」を大和商人から入手し、その「加工術」も独占、刀等の武器を蓄えた舜天は、他の按司を圧する強力な支配者として浦添に君臨します。(続く)

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亀島靖(かめしま・やすし)さん
1943年生まれ、那覇市出身、早稲田大学卒業。
歴史小説、歴史劇シナリオなど著作多数。
テレビやラジオのプロデューサーでも活躍。

 

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